中世の根来寺の山内には、数百とも言われる院家(塔頭寺院)が存在していた。院家は僧侶たちの修学の場であり、生活の場でもあった。僧侶がその師から様々な教えを伝授されるのも院家であり、一方で経済活動が行われるのもまた院家であった。言わば根来寺の細胞であり、根来寺はそうした院家の集合したものと言うことができよう。
院家の中には、教学の考究や修行に専念する学侶と、経済的・軍事的活動を通じて根来寺を支えていた行人とがおり、戦乱の世になるにしたがって後者が大きな力をもつようになっていった。根来寺旧境内が広がっていた範囲では、昭和51(1976)年以来、連続的に発掘調査が行われているが、これらの調査が行われるほとんどの場所において、秀吉の紀州攻めの兵火による焼土層が検出され、その下層からかつての院家の遺構が顔をのぞかせるが、時には具体的な院家の名称を銘記した遺物が出土することもある。
根来寺の旧境内の西部、蓮華谷と呼ばれる谷筋の中央部付近には、有力な行人たちの院家が数多く建立されていたようで、そのうちの一角から、底裏に漆によって「延命院」と書かれた朱漆塗の椀が出土している。おそらくその出土地点付近に行人方の院家・延命院があったことは確実で、この椀も延命院で使われていたものと考えられる。延命院の名前はこれまで知られておらず、この発掘調査で初めてその名前が甦ったことになる。木胎の外表面には、下地となる砥の粉とともに、補強のための「布着せ」が施され、、その上に漆が塗り重ねられている。布は皮膜断面の顕微鏡観察により、麻ではなく木綿が用いられている可能性があり、木綿の早い使用例として注目される。
この椀が出土した遺構は、2石(約361リットル)ないしは3石(541リットル)入りの巨大な備前焼の大甕を合計で10個分設置していた半地下式の倉庫で、延命院の活発な活動ぶりがうかがえる。おそらく延命院においては、複数の僧侶が活動していたものと思われる。巨大かつ多数の大甕はそうした多人数の活動を支えるのに必要な貯蔵具であったと考えられる。(学芸員高木徳郎)
→企画展 根来寺の今と昔
→和歌山県立博物館ウェブサイト