現在、岩出市民俗資料館がある敷地は、1987年、同館建設に先立って発掘調査が行われている。この時の調査では、ほかの根来寺旧境内の遺跡ではあまり例のない遺物が多く出土し、この敷地に立っていた戦国時代の根来寺の院家の性格には改めて注目する必要がある。まず、この遺跡の18世紀の遺構からは、「案内無きの者、此の内へ入るべからざる事/菩提院」と墨書された木札が出土している。池の遺構から出土したもので、投げ込まれた可能性もあるので断言はできないが、この遺構を含む敷地は菩提院と呼ばれる院家であった可能性がある。ただこれは、18世紀以降のことであり、ただちにこれが戦国時代以前も菩提院があったことを裏付けるものではない。
一方、この遺跡の戦国時代の井戸の遺構からは、河内国の鋳物師によって制作されたものに類似した鉄湯釜が出土しており、神仏習合的な法会が行われていたことを窺わせる。この井戸は、底の方に秀吉の紀州攻めの際の焼土が埋まっていることから、井戸として機能していた時期は戦国時代までであることが分かる。鉄湯釜はこの焼土の中から出土したもので、その時期に院家で使われていたものが、紀州攻めの後、焼土とともに井戸に投げ込まれたのであろう。また、焼土の上に堆積した土層からは、中国の伝説上の鳥である鳳凰の文様をあしらった軒丸瓦四点や、中国・元時13?14世紀)に生産された牡丹唐草文を染めた青花の植木鉢が出土している。これらは根来寺旧境内ではもちろん、全国的にも珍しい出土例で、この院家の格式の高さを窺わせる貴重な遺品である。とくに植木鉢は、これを使っていた時代が戦国時代(十六世紀)であることを考えれば、当時としても骨董品的な価値のあったものを、わざわざ入手して室内で草花を観賞していたことになり、この院家で暮らす僧侶らの、風雅で高尚な趣味生活の一端を垣間見ることができるのである。根来寺の院家で営まれていた僧侶たちの活動の様子は、こうした様々な出土品から実に具体的に探り当てることができるのである。(学芸員 高木徳郎)
→企画展 根来寺の今と昔
→和歌山県立博物館ウェブサイト