本日は、列品解説「新出弘法大師坐像と聖徳太子立像」を学芸員大河内智之が講師を務めて行いました。25人ほどの皆様にご参加頂きました。会場の風景を撮影してもらうのを忘れましたので、画像はございません。かわりに、今日お話しした新出の弘法大師坐像についての大胆な仮説をご披露。
田辺の地は、弘法大師行状絵詞や高祖大師秘密縁起の「稲荷契約」の説話では、弘法大師が稲荷明神と出逢った場として登場します。その後東寺に大師を尋ねた稲荷明神は歓待を受け、伏見の地に居住地をもらったとされます。現在の伏見稲荷ですね。ではなぜ稲荷明神は田辺にいたのでしょうか。
ここで注目されるのが熊野信仰。熊野三山への道中には、九十九王子と呼ばれる小社が多数あります。その中でも重要な五体王子と呼ばれる一つに稲葉根王子があり、その祭神は稲荷明神です。稲葉根王子が所在するのは上富田町。田辺のすぐそばです。熊野の祭神などを描いた熊野曼荼羅でも、稲束を担いだ稲荷明神が描かれます。熊野信仰が皇族・貴族・武士などに熱狂的に受け入れられた中世、田辺のあたりは、稲荷明神祭祀の地として認識されていた可能性があります。
弘法大師の縁起が編纂された際、稲荷明神と大師のエピソードを作る上で、田辺という場が選択されたのは上記のような事情があったのではないでしょうか。その、「大師ゆかり」の地に残される鎌倉時代後期の新出弘法大師坐像は、まさしくこれら一連の大師縁起の形成と無関係とは思われません。縁起との関わりで、中央側のプロデュースによって大師像が安置され、信仰の核を形成したのではないでしょうか。
仮説が大胆すぎて、まだ資料の裏付けをとれていませんが、守られ残されてきた大師像からこんな地域の歴史もものがたれるのではないかと、少し期待をこめてお話しさせて頂きました。ご聴講の皆様、お楽しみ頂けましたら幸いです。
なんどもお知らせさせて頂いておりますが、記念講演会「縄文時代早期高山寺式土器(8000年前)の広がりとその文化―環境・生活・土器文化圏―」は京都大学大学院教授 泉 拓良さんを講師にお迎えして、来る5月18日(日)、午後1時30分?午後3時の予定で開催致しますので、ぜひご参加下さい。参加をご希望されますお客様は、電話073-436-8670、あるいはFAX073-423-2467(FAXの場合は参加者名前、住所、電話番号をお示し下さい)にてお申し込みをお願い致します。博物館受付でも承っております。当日、席に余裕がある場合は、お申し込みなしでもご聴講頂けます。
博物館は、明日7日は休館ですので、お気を付け下さい。皆様の御来館をお待ち致しております。(学芸員大河内)
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