今日は、コラム「野呂介石の生涯」の6回目です。
6 あこがれ―中国絵画の学習と詩意(しい)
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重要文化財 離合山水図(りごうさんすいず) 伊孚九(いふきゅう)筆 中国・清時代(18世紀) 個人蔵
介石が活躍していたころの江戸時代の日本では、当時の最も先進的な文化の発信地であった中国の文学や芸術を高く評価し、その影響を強く受けていました。日本の文人たちの間では、中国趣味が流行し、介石も、当然、中国の文化にあこがれていたようです。とくに、画家として本場中国の絵画から学びたいという思いも強く、色々と努力したことがうかがえます。その結果、介石は、当時の日本に伝わっていた中国絵画を実際に見ることができたようで、それらのいくつかは現在も日本に残されています。こうした中国絵画と介石の絵とを比較することで、介石が中国の絵から何を学んだのかを、ある程度知ることができるのです。
一方、介石の作品を見ると、絵の上に長い文章が書かれているものが多いことに気づきます。これらの文章は、たいてい漢詩なのですが、実は、介石自身が作った漢詩はほとんどなく、大半は中国の詩人や画家が作った漢詩です。このように、優れた漢詩などをみずからの絵に引用し、その詩の内容に基づいて描かれた絵を詩意図(しいず)と呼びます。こうした詩意図にも、中国の文化へのあこがれが表明されていますし、また、介石がどんな中国の詩からインスピレーションを得たのかもわかります。
このような介石が学んだ中国絵画や漢詩を調べてみると、どうやら中国の元(げん)時代から清(しん)時代のものが多いようです。当時の日本にとっては、比較的新しい時期の斬新な中国の文化を、介石は積極的に摂取しようとしていたといえるでしょう。
→特別展 野呂介石
→和歌山県立博物館ウェブサイト