今日は、昨年(2009年)の秋に、当館で特別展を開催した
野呂介石(のろかいせき、1747-1828)のお墓について、
少しお話ししましょう。
江戸時代の中期から後期にかけて活躍した文人画家であり、
紀伊藩士でもあった野呂介石は、
じつは、今から182年前にあたる文政11年(1828)3月14日に
82歳で亡くなりました。
すなわち、183回目の命日にあたる今日
(実際に介石が亡くなったのは、
太陰暦の3月14日のことですから、
太陽暦では今年でいうと4月27日に相当します)、
昨年の展覧会のお礼と報告をこめて、
お墓参りをしてきました。
(画像をクリックすると拡大します)
介石のお墓は、野呂家の菩提寺(ぼだいじ)である
護念寺(ごねんじ、ごうねんじ)にあります。
その墓碑(ぼひ)は、
介石の養子である野呂介于(のろかいう、1777-1855、隆忠)によって
建てられました。
墓碑には、少し長い文章が彫られていますが、
これは、介石の生涯や、その人となり、
さらには家族構成や亡くなった日などを書いた、
いわば簡単な伝記です。
このように墓碑に彫られた文章を、墓碑銘(ぼひめい)といい、
埋葬者と生前に交流のあった人などが、たいてい墓碑銘を作ります。
介石の墓碑銘は、紀伊藩の儒学者である
山本楽所(やまもとらくしょ、1764-1841、惟孝)が作った文章です。
このように、江戸時代のお墓などには、
埋葬者が亡くなった当時の貴重な情報が、
墓碑銘として残されている場合が少なくありません。
その意味では、お墓も、とても貴重な文化財なのです。
じつは、今回ご紹介した介石の墓碑も、
新指定文化財ではありませんが、
昭和46年(1971)に和歌山市の史跡に指定されている、
指定文化財です。
ところで、江戸時代の墓碑の中には、
砂岩(さがん)というはがれやすい石で作られている場合が多いので、
墓碑銘がはがれて傷んでしまうことがあります。
実際、介石の墓碑も、現在は修復されていますが、
砂岩製のため傷みがはげしかったようで、
その墓碑銘の一部は失われてしまっているのです。
昨年の展覧会では、
この墓碑の拓本(たくほん:墓碑の表面に和紙をはり、
上から墨を塗って銘文のくぼんだ部分だけを白く残し、
書かれている文章を読みやすく紙に写し取ったもの)
を展示しましたが、
そこには、今は失われてしまっている墓碑銘が残されており、
貴重な資料となりました。
このように、日ごろは見逃してしまいそうなお墓ですが、
文化財として考えてみると、
今までとは少し違った見方ができるのではないでしょうか?
事実、明治時代から昭和初期にかけては、
著名な文化人などのお墓をめぐり、
その墓碑銘などを調査して記録する
「掃苔(そうたい)」というお墓参りが流行しました。
掃苔とは、もともとは、
墓についた苔などを掃除するという意味でしたが、
それから転じて、
尊敬する著名人などの墓に参ることを指すようになったようです。
掃苔にもさまざまな形態がありましたが、
私たち学芸員にとっても、
今は忘れられてしまっている人物について調べる場合、
まずはお墓参りをして、
その墓碑銘に書かれている情報を確認することから始める
という場合が少なくありません。
先人たちへの尊敬の念を忘れずに、
墓碑銘を守り、記録していくことも、
先人たちの偉大な業績を後世に伝えるための、
小さな一歩なのです。(学芸員 安永拓世)
→企画展 「新発見・新指定の文化財」
→特別展 野呂介石
→和歌山県立博物館ウェブサイト