安楽寿院の創建と慶長期の復興
現在の京都市伏見区竹田、中島にまたがる鳥羽離宮(鳥羽殿)の造営は、応徳3年(1086)に始まりました。
その後、鳥羽離宮は白河・鳥羽・後白河の三代にわたる法皇が御所として使用し、院政の舞台となっています。
この鳥羽離宮の東辺に建てられたのが、安楽寿院です。
安楽寿院は、鳥羽天皇(1103?56)が自らの臨終の地とした場所で、自らの遺骸を置く三重塔(本御塔)を建て、保延5年(1139)に塔の供養が行われました。
このとき、塔の本尊である阿弥陀如来坐像(現在の安楽寿院本尊、重要文化財)が安置されました。
(阿弥陀如来坐像、安楽寿院蔵)
それから約460年を経た、慶長期に安楽寿院の復興が行われます。
昭和33年(1958)、安楽寿院周辺では名神高速道路の建設が具体化し、これにともなって断続的に発掘調査が行われるようになりました。
今日に至るまで150数次の調査が行われ、鳥羽離宮跡にかかわる遺構のほか、中世から近世に至る遺構や遺物も確認されています。
また、慶長期に再建された安楽寿院の遺構群や遺物も確認されており、内畑児童公園周辺での発掘調査で出土した鬼瓦は、慶長期につくられた建物に使われていたものと考えられています。
(鬼瓦、写真提供 (財)京都市埋蔵文化財研究所)
興味深いのは、慶長期の遺構の下層では、それ以前の明確な遺跡とみられるものは確認されなかったことで、現在の安楽寿院周辺は鎌倉時代までは人工的にほとんど手が加えられず、草が生い茂り、時には鴨川の氾濫で水をかぶる場所(氾濫原)であったと推定されています。
現在の安楽寿院の境内地が、平安時代に創建された場所と異なっていることは文献資料の検討から指摘されていましたが、それが発掘調査によって実証されたわけです。
(慶長期に復興された安楽寿院の境内地〈赤線で囲んだ部分〉)
慶長9年(1604)、新堂(金堂)の再建が行われ、本格的に安楽寿院の復興が始まります。
安楽寿院の再興の中心となって活躍したのは、塔頭の一つ遍照院の住職を勤めた覚栄(かくえい、??1622)でした。
安楽寿院に残されている摧薪録(さいしんろく)には、覚栄の活躍の様子が詳しく記されています。
今回の展覧会では、このとき覚栄によって新堂に寄進された什物(不動明王立像、薬師如来坐像、三千仏図、三千仏名経、涅槃図)も展示していますので、是非ご覧ください。