特別展「華麗なる紀州の装い」では、ゴールデンウィーク中に、さまざまなイベントがあったこともあり、コラムのアップが大変遅くなってしまいました。
今回のコラムでは、展覧会で展示している作品の所蔵先である紀州の神社や寺院について、少し、ご紹介しようと思います。
まず、今回は、国宝の古神宝類の所蔵先である熊野速玉大社と、そこにまつられている神々、そしてその熊野速玉大社に奉納された古神宝の重要性についてご紹介しましょう。
和歌山県の南東部、三重県との県境を流れる熊野川(くまのがわ)。その熊野川の下流に位置するのが和歌山県新宮市(しんぐうし)です。熊野速玉大社は、この新宮市の熊野川河口近くに位置する神社で、熊野三山の一つに数えられています。
(現在の熊野速玉大社の社殿)
この熊野速玉大社には、明徳元年(1390)に奉納された、およそ1000点の「古神宝(こしんぽう)」が伝えられており、「古神宝類(こしんぽうるい)」として一括で国宝に指定されています。古神宝とは、神社の神々にささげられた宝物である「神宝(しんぽう)」のうち、神殿から下げられた古い時代のもののことです。
これらの熊野速玉大社の古神宝類は、武具・装束・化粧道具・紡績具・装身具などさまざまな調度品からなり、熊野速玉大社にまつられている12の神々(熊野十二所権現、くまのじゅうにしょごんげん)と、熊野速玉大社の摂社である阿須賀神社(あすかじんじゃ)に奉納されたものです。
(阿須賀神社も、熊野速玉大社からほど近い新宮市内にある神社です。この阿須賀神社にも、熊野速玉大社と同じ時に制作・奉納された古神宝類が伝来していましたが、戦後、売却されて国有となり、現在は、京都国立博物館の所蔵となり、国宝に指定されています。)
熊野速玉大社にまつられている12の神々は、以下の通りです。また、それぞれの神にはランクに相当する格がありましたが、それぞれの神の格も、およそこの神殿の順になっていました。
上四社
第1殿 結宮(むすびのみや)
第2殿 速玉宮(はやたまのみや)
第3殿 証誠殿(しょうじょうでん)
第4殿 若宮(わかみや)
中四社
第5殿 禅師宮(ぜんじのみや)
第6殿 聖宮(ひじりのみや)
第7殿 児宮(ちごのみや)
第8殿 子守宮(こもりのみや)
下四社
第9殿 一万・十万宮(いちまん・じゅうまんのみや)
第10殿 勧請宮(かんじょうのみや)
第11殿 飛行宮(ひぎょうのみや)
第12殿 米持宮(こめちのみや)
(今回の展示では、子ども向けの「熊野の神様ランキング」というキャプションで説明しています)
このように12神という多くの神々への奉納品であるため、熊野速玉大社の古神宝類は、全国の他の古神宝類と比較しても、圧倒的な種類と数量を誇るわけですが、熊野速玉大社の古神宝類の重要な点は、こうした種類の豊富さや数量的な面だけではありません。以下、熊野速玉大社の古神宝類の重要性について、簡単に紹介しておきましょう。
まず、第一に挙げられる熊野速玉大社の古神宝類の重要な点は、明徳元年(1390)という奉納年がはっきりしているということです。これは、古神宝類の一つである「金銀装鳥頸太刀(きんぎんそうとりくびだち)」の刀身の茎銘(なかごめい)に「康応二年三月日」の年紀があったことが最も重要な根拠となっています。康応2年(1390)は3月26日に明徳元年に改元されました。この刀身は、第二次世界大戦後に連合国総司令部(GHQ)に接収されて、現在所在不明となっていますが、古写真などから茎銘が確認でき、古神宝類の制作年を確定する貴重な資料となります。また、写しではあるものの、「熊野山新宮神宝目録(くまのさんしんぐうしんぽうもくろく)」という目録の巻末に記された「明徳元年十一月日」という年紀もこれと一致しており、同年に制作・奉納されたことが明らかになるのです。
国宝 金銀装鳥頸太刀 刀身茎銘(『梛の老樹』(熊野速玉大社、1954年)より転載)
熊野山新宮神宝目録 巻末部分 熊野速玉大社蔵
続いて、第二に挙げられる重要な点は、古神宝類の奉納者がわかるということです。熊野速玉大社に残る「新宮重訴状案(しんぐうじゅうそじょうあん)」や「熊野山新宮神宝目録」などの記述によると、熊野十二所権現と阿須賀神社を含めた計13社の神宝のうち、結宮の神宝は後小松天皇(ごこまつてんのう、1377~1433)、速玉宮は後円融上皇(ごえんゆうじょうこう、1358~93)、証誠殿は室町幕府の3代将軍である足利義満(あしかがよしみつ、1358~1408)、以下10社は諸国の守護が奉納を担当したようです。もちろん、神宝奉納における全体としての統括には、室町幕府の大きな支援があったと想像されますが、神々のランクに応じて奉納者が割り当てられた点は、とても興味深いといえます。
さらに、第三に挙げられるのは、神宝目録類との照合により奉納先の神々が判明する点です。これまで、こうした目録類との比較には、おもに「熊野山新宮神宝目録」が挙げられてきましたが、そのほか、「熊野山新宮御神宝内外御装束之事御調進造替之文目録(くまのさんしんぐうおんしんぽうないがいおんしょうぞくのことおんちょうしんぞうたいのふみもくろく)」(以下、「内外装束目録」と略す)や、「紀伊続風土記(きいしょくふどき)」巻82所収の「昔時神宝目録(せきじしんぽうもくろく)」(以下、「昔時目録」と略す)との照合も重要といえます。たとえば、「熊野山新宮神宝目録」では、巻頭の結宮と速玉宮の部分が失われてしまっていますが、「内外装束目録」では失われた部分もほとんどなく、目録の記述はほぼ全部そろっています。また、「昔時目録」は、明徳元年の神宝奉納に際して、元亨元年(1321)の目録を写したものであり、明徳以前の神宝の状況を知るうえで貴重な手がかりとなります。これらの目録類の記述については、今回の図録の資料解説でも、できるかぎり、現存する古神宝類との照合をおこなっています。こうした目録類との照合により、その古神宝が、本来、どの神に奉納されたかもわかるのです。
熊野山新宮神宝目録 巻頭部分 熊野速玉大社蔵
さて、このような意義を踏まえたうえで、第四に挙げられるのは、古神宝類の意匠や工芸技法が、奉納先の神々のランクを反映しているという点です。そうした特徴は、蒔絵手箱における意匠と工芸技法の選択に、最も端的にあらわれています。たとえば、天皇・上皇・将軍(足利義満)が奉納したランクの高い三所権現の手箱には、金粉をふんだんに蒔(ま)いた沃懸地(いかけじ)や、貝殻の代わりに銀の板を螺鈿(らでん、漆の中に貝殻などを文様の形に切ってはめ込む技法)に用いた銀螺(ぎんら)といった高度で華麗な技法が用いられているのです。一方、その下のランクである若宮と阿須賀神社には厚梨地螺鈿(あつなしじらでん)が、さらに下のランクである禅師宮以下の8社には蒔絵螺鈿が用いられており、奉納先の神々のランクに応じた明確な技法の使い分けがなされています。また、近年では、手箱内に納められている鏡などの研究が進み、手箱内の鏡についても、手箱と同じく13社の格差にそれぞれ対応した大きさや制作順序が選択されていることが明らかとなってきました。このような各社の差異は、ある意味では奉納者の序列、すなわち天皇・上皇・将軍・諸国の守護というランクとも一致しており、他の古神宝類を見ていく際にも、一つの指標となるのです。たとえば、装束類で見るならば「袍 萌黄浮線綾丸文固綾(ほう もえぎふせんりょうまるもんかたあや)」や「表袴 白窠霰文二重織(うえのはかま しろかあられもんふたえおり)」には、天皇しか用いることのできなかった禁色(きんじき)と呼ばれる色や文様が用いられているとの指摘もあり、こうした特徴が、それらの奉納先である速玉宮のランクの高さを裏付けています。
このように、熊野速玉大社の古神宝類は、単に多種多様の神宝が大量に奉納されたというだけではなく、「いつ」、「だれが」、「どの神へ」、「どんな文様や技法の神宝を奉納したのか」が全てわかるからこそ、全国の古神宝類の中で特に高く評価され続けてきたともいえるのです。
今回の展覧会で展示している装束についても、可能な限り、目録類との照合をおこない、どの神に奉納されたのかを推定しています。装束の文様や技法を見ていただくだけではなく、こうした神々のランクやその奉納者の地位を想像しながら作品を見ていただくと、展示をよりいっそう楽しめるのではないかと思います。ぜひ、この機会に、それぞれの装束の文様や技法などを比較しながら、展示をご覧ください。(学芸員 安永拓世)
→特別展 華麗なる紀州の装い
→和歌山県立博物館ウェブサイト