和歌祭(わかまつり)は、和歌浦に紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)が建てられた翌年の元和8年(1622)に始まった紀州東照宮の春の祭礼です。紀州東照宮にまつられている徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)の命日にあたる4月17日におこなわれていました。この和歌祭では、多くの行列とともに雅楽(ががく)を演奏する楽人行列(がくじんぎょうれつ)が参加し、舞楽が奉納されましたが、実は、和歌祭の成立当初から楽人行列や舞楽がおこなわれていたわけではありません。
和歌祭における楽人行列や舞楽の導入を考える上で参考になるのは、名古屋東照宮(なごやとうしょうぐう)の祭礼について記した「張州雑志(ちょうしゅうざっし)」や「東照宮御神事記(とうしょうぐうおんしんじき)」(いずれも蓬左文庫蔵)の記述です。それによると、名古屋東照宮の祭礼で雅楽を演奏するようになったのは、寛永7年(1630)のことで、尾張徳川家の徳川義直(とくがわよしなお、1600~50)が、紀伊徳川家の徳川頼宣(とくがわよりのぶ、1602~71)に相談して決めたと記されています。また、寛永7年(1630)の時には、京都から楽人を招いて騎馬で演奏させましたが、翌8年(1631)からは楽人を召し抱えて、徒歩で演奏させたとの記述もあります。
この記事は、名古屋東照宮の楽人について述べたものですが、いずれの記事にも頼宣と相談して決めた旨が記されることから、紀州東照宮の祭礼でも同様の変化があった可能性が高いとみられます。すなわち、和歌祭の楽人行列や舞楽は、寛永7年(1630)ごろ、京都の楽人を招いておこなわれるようになったのではないかと考えられるのです。これは、日光東照宮の祭礼に舞楽が初めて取り入れられる寛永13年(1636)よりも早い時期として注目されます。
こうして寛永7年(1630)ごろ始まったと想定される和歌祭の舞楽ですが、紀州東照宮には、楽人行列や舞楽で用いられたとみられる装束や楽器などの舞楽所用具が、数多く残されています。それらは、平成23年(2011)に「和歌祭祭礼所用具」の一部として和歌山県指定文化財に指定されました。
これらの祭礼所用具は、その制作時期や用途からおよそ次のA~Cの三グループに大別できます。
まずAグループは、舞楽装束の「常装束」に分類される装束類です。
[常装束 袍 左方 (紀州東照宮蔵)] [常装束 袍 右方 (紀州東照宮蔵)]
[常装束 下襲 左方 (紀州東照宮蔵)] [常装束 下襲 右方 (紀州東照宮蔵)]
[常装束 半臂 左方 (紀州東照宮蔵)] [常装束 半臂 右方 (紀州東照宮蔵)]
舞楽は、大きく分けて、左方(主に古代中国伝来の音楽である唐楽を中心とし、装束は赤系統となる)と、右方(主に朝鮮半島伝来の音楽である高麗楽を中心とし、装束は緑系統となる)がありますが、紀州東照宮に残る常装束は、いずれも10組ずつ確認できるものが多いため、左方10名、右方10名の和歌祭の楽人装束として使用されたとみられます。
同様の常装束の比較材料としては、慶長4年(1599)に豊臣秀頼(とよとみひでより、1593~1615)が奉納したとされる「四天王寺舞楽所用具」(重要文化財)と、寛永13年(1636)に家康の21回忌の際に奉納された日光にある輪王寺の「舞楽所用具」(重要文化財)がありますが、紀州東照宮の常装束は、全体的に四天王寺の常装束に、よく似ています。こうした特徴には、制作時期と制作地との両方の問題が関連しますが、和歌祭の成立経緯などを考えると、あるいは、和歌祭に舞楽が取り入れられた寛永7年(1630)ごろ、京都から招かれた楽人により紀州へもたらされた可能性なども想定され、今後の比較検討が待たれるものです。
次のBグループは、舞楽の特定の曲目に使用される装束や楽器類です。これらは、舞楽所用具ではあるものの、和歌祭の舞楽で、毎年どのような曲目がおこなわれたか不明な点が多いため、必ずしも当初から和歌祭用であったかどうか定かではありません。
とはいえ、「振鼓(ふりつづみ)」・「鶏婁鼓(けいろうこ)」・「一鼓(いちのつづみ)」・「楽太鼓(がくだいこ)」は、舞楽の「一曲(いっきょく)」という曲目や、舞楽法会の行道で用いられた楽器であり、いくつかの和歌祭絵巻にも、これらを持った楽人が登場しています。
[振鼓 (紀州東照宮蔵)] [鶏婁鼓 (紀州東照宮蔵)]
[一鼓 (紀州東照宮蔵)]
さらに、「楽太鼓(がくだいこ)」や「鞨鼓(かっこ)」は、「鉦鼓(しょうこ)」を含めた「三鼓(さんこ)」としてAグループの常装束とともに使用された可能性があり、今後の検討が待たれます。
また、「新靺鞨(しんまか)」や「「林歌(りんが)」という舞楽の曲目で用いられる装束や所用具が伝わる点は興味深いといえるでしょう。
[新靺鞨 袍 (紀州東照宮蔵)] [林歌 袍 (紀州東照宮蔵)]
和歌山城下で町年寄を勤めた沼野家に伝来した「和歌御祭礼御行列書(わかおんさいれいおんぎょうれつがき)」の文政8年(1825)の条には「新靺鞨(しんまか)」と「林歌(りんが)」の曲目が掲載されており、こうした際に使用された和歌祭の舞楽所用具である可能性も考えられます。
ただ、このBグループの資料は、全体的にAグループの資料よりも時代が下がる印象があり、18世紀から18世紀ごろの制作とみられる点には注意が必要です。この時期の状況として重要なのは、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1853)が雅楽や舞楽を愛好し、雅楽会や舞楽会を頻繁に催していたことです。その意味で、Bグループの舞楽所用具は、治宝周辺で新調された舞楽装束が、その後、紀州東照宮へ奉納されたものである可能性も考えられるでしょう。たとえば、「林歌 袍(りんが ほう)」などは、「拝領装束」として紀州東照宮に伝来した経緯もあるようで、治宝の舞楽愛好との関連性や今後の検討が待たれます。
最後のCグループは、舞楽以外の芸能に関する道具や楽器です。これらの中には、練り物行列の所用具とみられるものや、「綾藺笠(あやいがさ)」・「編木(ささら)」・「腰鼓(ようこ)」のように田楽の所用具とみられるものが含まれています。和歌祭における田楽の成立は、舞楽よりも早く、元和8年(1622)の和歌祭成立当初からおこなわれていた記録があり、これらの田楽所用具とみられる一群は、和歌祭における田楽の具体的な様相を考える上でも貴重といえるでしょう。
以上が、現在確認できている紀州東照宮所蔵の和歌祭用の祭礼所用具ですが、これらは、江戸時代の和歌祭の実態を物語る貴重な資料であるとともに、資料群としても重要な意味を持っています。すなわち、その数量に注目してみると、Aグループは、左方・右方とも10名分、Bグループの「新靺鞨」・「林歌」は4名分、「振鼓」・「鶏婁鼓」・「一鼓」はそれぞれ2名分となり、これらが楽人や舞楽の曲目の人数と一致し、かつ、全体量がほぼ揃っているという点でも意義深いのです。
ただ、紀州東照宮に残されている和歌祭に関係する祭礼所用具は、今回指定されたもののみではありません。和歌祭本来の姿を解明していくには、現段階で人数分に足りない舞楽所用具をはじめ、その他さまざまな祭礼所用具の地道な発見と位置づけが待たれるといえるでしょう。(学芸員 安永拓世)
→特別展 華麗なる紀州の装い
→和歌山県立博物館ウェブサイト