紀伊国神野・真国荘絵図(きいのくにこうのまくにのしょうえず)
重要文化財 神護寺蔵 縦92.0㎝ 横112.1㎝ 紙本淡彩
平安時代・康治2年(1143)
紀美野町の東部に所在した神野(こうの)・真国荘(まくにのしょう)。
平安時代の神野・真国荘を描いた絵図が京都の神護寺(じんごじ)に残されています。
ただしこれは、康治2年(1143)に神野・真国荘が鳥羽院の荘園として成立したときのものです。
後に神護寺が神野・真国荘の領家職(りょうけしき)を獲得したときに、
神護寺へもたらされたものと思われます。
この絵図には、荘園の境界を示す牓示(ぼうじ)が7つ描かれ、
その裏に公文(くもん)・下司(げし)・国使(くにのつかい)などの署名があります。
荘園内の村として、神野村(こうのむら)・粟田村・猿川村・志賀野村
・真国村・石走村(いしはしりむら)と耕地を表す井桁状の図像、屋敷の図像が描かれています。
また十三所大明神(現在の十三神社)・熊野神社(現在は跡地不明)の社殿と鳥居が朱で描かれます。
そのため紀伊国神野・真国荘絵図は、平安時代の農村を知ることができる貴重な絵図といえます。
神野・真国荘と野上荘とで境目をめぐる争いがあったため、
この絵図には西部の梅本川流域が詳細に描かれています。
(紀伊国神野・真国荘絵図部分 神護寺蔵)
野上荘側は梅本川とその付近にある「無銘の木」が荘園の境目であると主張し、
神野・真国荘側は佐々小河村(梅本川左岸の山の麓)が境目であると主張していました。
そのため、梅本川の支流が詳細に、かつ左岸が実際よりも広く誇張して描かれています。
では、その境目をめぐる争いの結末はどうなったのでしょうか。
高野山正智院(しょうちいん)に残る鎌倉時代の紀伊国真国荘絵図には、
野上荘との境目は「西堺一本木」となっており、
現在、梅本川と貴志川の合流点付近(紀美野町吉野)には大木(だいぎ)という地名が残ります。
(紀伊国真国荘絵図部分 正智院蔵)
結果的には、野上荘の主張する境目(木)が採用されていたようです。
ただし、鎌倉時代半ば以降、神野・真国荘の荘園領主は高野山となり、
高野山は金剛峯寺根本縁起を用いて、紀ノ川以南、貴志川以東の領有を主張します。
その西南の境目が、梅本川流域の小川地域
(現在の紀美野町中田・梅本・坂本・福井・吉野)にあたります。
高野山の主張が認められて、小川地域は鎌倉時代の終わり頃には高野山の荘園となります。
(金剛峯寺根本縁起部分 金剛峯寺蔵)
また、神野・真国荘と境目を争った野上荘までも、
南北朝時代には一時期、高野山の荘園に組み込まれていました。
戦国~江戸時代になると、野上荘側が再び梅本川流域まで境目を押し戻し、
梅本川が紀伊藩領と高野山領の境目となります。
現在でも、紀美野町の福井地区は梅本川を挟んで西福井と東福井と分かれていますが、
このような歴史に起因しています。
小川地域は境目として、時代とともにその帰属が大きく揺れ動いていました。
その発端がまさにこの絵図に示されているのです。
平安時代にはじまり、鎌倉・南北朝・室町・戦国・江戸時代と変遷しながら、
現在の村のありかたまでも規定しています。
この絵図を紐解いていくと、現在の村の成り立ちをも知ることもできます。
(学芸員 坂本亮太)