国覔系図(くまぎけいず)
個人蔵 縦29.8㎝ 横372.9㎝ 紙本墨書
南北朝~室町時代
紀美野町の国吉地区は、平安時代には猿川村(猿川荘)と呼ばれていました。
猿川村には巨大な宝篋印塔(ほうきょういんとう)、将軍桜、片目藪など、
坂上田村麻呂にまつわる伝説が多く残されています。
(坂上田村麻呂の供養塔と伝える石造宝篋印塔)
猿川村の中心に熊野神社と惣福寺観音堂があります。
(熊野神社の社叢)
国覔系図(くまぎけいず)はもともと熊野神社の神主家に伝来したものです。
国覔氏は、天暦元年(947)に猿川村を開発した武士です。
系図の前半部には福富(ふくとみ)以降の系図が、
後半部には先祖である福富・蓮女(れんにょ)・宗明(むねあき)・
近信(ちかのぶ)・近元(ちかもと)の事績などが
漢字と片仮名で説話風に記されています。
国覔氏の信仰、館の様子など、平安時代のリアルな村の様子を伝える珍しい古文書です。
最初に福富と娘蓮女、国覔宗明の物語。
子に恵まれなかった福富は観音に祈っていたところ、蓮女という娘を授かりました。
蓮女が8歳の時、遊行人(ゆぎょうにん)から琴・経・舞などを習いました。
遊行人が都で蓮女の美しさを語っていると、若殿は会ってもいないのに恋に落ち、
蓮女のもとへ遊行人とともに訪れました。
若殿は対面を許され、蓮女や父母とともに笛・鼓にあわせて舞や歌を謡い、
ついには跡を継いで国覔宗明と名乗ったといいます。
福富の館は廊、寝殿、厩(うまや)、侍(さぶらい)、
膳所屋(ぜんしょや)などがあったと記されています。
猿川村に居を構えていた武士の屋敷の規模を知ることができます。
次に近信の物語。
近信も子に恵まれず、坂上田村麻呂が作った観音に祈っていたところ、娘を授かったといいます。
このように熊野神社の神主家には、古くから坂上田村麻呂伝説が伝えられていました。
もしかしたら、惣福寺観音堂の千手観音坐像の前身には、
坂上田村麻呂が作ったという観音像があったのかもしれません。
(惣福寺観音堂 千手観音坐像)
さて近信の娘が7歳の時、京都から琵琶(びわ)の上手な尼が来て、娘は尼に琵琶を習いました。
仁平(1151~54)の頃、源為義(みなもとのためよし)の甥六郎殿が猿川村を訪れ、
観音・十二所の御前で経を読む近信の娘と会い、子をもうけることになります。
それが元服して近元と名乗ります。
続いて近元の物語。
備後法橋智秀(びんごほっきょうちしゅう)が神野・真国・猿川荘の預所(あずかりどころ)
として現地へ下向し、猿川村の公文所(くもんじょ)へ入ろうとしたところ、
近元は出迎えることをしませんでした。
それに腹を立てた智秀は、京都へ上り荘園領主(藤原成通)に訴えたところ、
近元は牢屋にとじ籠められてしまいます。
近元の母(近信の娘)に琴を教えた尼は、近元に会おうとしますが会うことができませんでした。
そこへ長身の有という山伏がやってきて、牢屋を破ってはどうかと提案します。
夕方に有は在家(ざいけ)に火を放ち、牢を破り、
近元とともに大和街道を通って、泉木津(京都府木津川市)、
そして紀伊国の猿川村へとたどり着きます。
そして、近元は家を有に譲ったといいます。
以上が、国覔氏にまつわる物語です。
村で暮らす武士(荘官)の系図とその事績が物語でわかる事例は珍しく、面白いものです。
また猿川村に諸国を遊行する人々が多く訪れていたこともわかります。
難解な文章ではありますが、猿川村に伝わった昔話として、読んでみてはいかがでしょうか。
*なお、この記録は、『和歌山県史』史料編 中世二で、活字で紹介されています。
またこの国覔系図を使った論文として、
西岡虎之助「神護寺領の成立と統制」『荘園史の研究』下巻、
上横手雅敬「武士団の成立」『日本中世政治史研究』
山陰加春夫「神野・真国荘」『きのくに荘園の世界』下巻
があります。
興味のあるかたは、ご確認ください。
(学芸員 坂本亮太)