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特別展関連コラム「三谷薬師堂の女神坐像-残された鋳造神像の木型-」

三谷薬師堂の女神坐像-残された鋳造神像の木型-
 高野山の開創にまつわる、一つの物語がある。弘法大師空海が密教の道場を造る好地を探して、今の奈良県五條市あたりを歩いていた。そこで出会った狩人(実は狩場明神という神)から、ふさわしい場所として高野の地を教えられた。そこで、高野とその周辺一帯の地主神である丹生明神に、土地を譲ってもらえるようお願いしたところ、丹生明神は快くそれに応じ、自らは鎮守の神となることを伝えた、というものである。
 この丹生明神は、本来は豪族丹生氏の氏神である。丹生氏は紀ノ川流域のかつらぎ町三谷から、九度山町慈尊院にかけての一帯に拠点を持っていた豪族で、高野山の造営にあたっては、空海はこの丹生氏に助力を求めていたと推測できる資料がある。おそらくは高野山造営に大きな力添えをした丹生氏との関わりの中、丹生明神は、後に高野山の鎮守の神と位置づけられ、一種の開創神話が作られていったのであろう。
 こうした丹生氏のかつての拠点に位置するかつらぎ町三谷は、丹生氏にまつわる伝承によれば、丹生明神が最初に降臨した土地とされ、現在も丹生酒殿神社がまつられている。丹生明神はこの地をはじめとして、高野山麓の各地を移動し、最終的に天野の地に鎮座したとされる。現在の丹生都比売神社が、それである。このため丹生酒殿神社と丹生都比売神社のつながりは深く、中世では同じ神官が宮司を務めていた。
 この丹生明神の姿を表した神像が、丹生酒殿神社と同じ三谷地区の村堂である、三谷薬師堂に残されていることが、今年6月の調査で判明した。像高42.3㎝、桧の一木から像の全てを彫りだしている。頭部に花形の華麗な冠をつけ、手を袖の中に隠して座る姿で、目鼻立ちのはっきりした意志的な表情に特徴があり、鎌倉時代初期の造像と判断される。おそらく、かつては丹生酒殿神社に祀られていたものであったが、明治時代の神仏分離に際し、社外に移されたらしい。丹生明神を確実に表した神像として、現在のところ最古のものである。そして、さらに重要な発見があった。
 三谷薬師堂には、この丹生明神像と作風が一致する女神像がもう2体あり、こちらは気比明神、厳島明神を表したものである。この3体をよく調べてみると表面に土がこびりついていた。木彫像の表面に厚く土がついていることの合理的解釈としては、鋳造像の木型という可能性が考えられる。中世においては、銅で仏像などを鋳造して作る場合、その雌型を作るための型に、木型を用いた。そうした木型がそのまま寺の本尊として祀られている事例もあるが、神像では他に例がない。
 では、実際に鋳造した神像は、どこに祀られているのだろうか。それは丹生都比売神社をおいて他には考えられない。その像は、宗教的禁忌によって他見は許されないが、丹生都比売神社の各別のご配慮によって確認できた社蔵の古文書によれば、確かに高さ1尺4寸(約42㎝)の、鋳造された神像が祀られているという。
 三谷薬師堂の女神坐像は、和歌山県立博物館で開催中の特別展「高野山麓 祈りのかたち」(~12月2日)で、初公開中である。美しい女神のまなざしの先に、高野山開創の雄大な神話を思い描いて頂きたい。
(学芸員 大河内智之)
三谷薬師堂女神坐像

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