さて、連休中はイベント続きで、なかなかブログを更新する時間が取れず、コラムの執筆が遅くなってしまいました…。前期展示も終了間際になって、ようやく1回目のコラムです。
まことに、申し訳ございません。
今回のコラムでは、玉洲の絵画制作のプロセスがわかるような作例をいくつか取り上げて、それらを、玉洲が影響を受けたと思われる作品と比較しながら見ていきたいと思います。
まず、1回目の今回は、玉洲の最初期の画業を代表する作例である、
「蘆間舟遊図(ろかんしゅうゆうず)」を取り上げましょう。
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蘆間舟遊図 桑山玉洲筆
(ろかんしゅうゆうず くわやまぎょくしゅうひつ)
絹本著色 1幅 縦28.7㎝ 横41.4㎝
江戸時代(18世紀) 個人蔵
岸辺に浮かぶ二艘(そう)の小舟を描いた絵です。舟の上では、漁師たちが飲食を楽しみつつ、まさに談笑にふけっているところでしょう。一人の漁師は舟の舳先(へさき)で笛(ふえ)を吹き、漁師たちの背後には、子どもを抱く女性の姿も見えます。舟の周囲には蘆(あし)が生い茂り、蘆の間では漁に使った網(あみ)を干しているようです。漁を終えた漁師たち家族の、くつろぎのひとときなのでしょう。涼しげな風が、蘆の葉をなびかせて吹いています。
描写は、モチーフ一つ一つを細かく描き出した緻密(ちみつ)な筆使いで、とりわけ、舟の屋根の網代(あじろ)の表現などからは、玉洲の高い技量がうかがえます。
一方、彩色は、漁師の体や食べ物には、茶・朱・白などの濃い彩色を用い、女性の体や舟の網代、蘆の葉や遠山には代赭(たいしゃ)・藍(あい)などといった淡い彩色を施しています。濃い彩色と淡い彩色を適度に使い分けた色彩表現が、画面に明快で穏やかな印象を与えて効果的です。遠い山々の淡い藍が、干した網に透(す)けて見えているのも美しい表現といえるでしょう。
ところで、この絵の図様については、中国の明(みん)時代末の万暦(ばんれき)35年(1607)に刊行され、日本でも元禄15年(1702)に和刻本(わこくぼん)が出版された『図絵宗彝(とかいそうい)』の巻1の18丁表の「柳」「魚舡」という挿絵からの影響が指摘されています。
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たしかに、杯(さかづき)を持つ漁師の姿や、子どもを抱く女性の姿、舟の網代状の屋根の描写などが、とてもよく似ているようです。
玉洲は、みずからの画論書の中でも、何度か『図絵宗彝』の説を引用していることから、『図絵宗彝』を参考にしていたのは間違いありません。その意味で、この絵は、玉洲が版本(はんぽん)と呼ばれる出版物の挿絵から学んだことを示す貴重な作例といえるでしょう。
ただ、このような挿絵からの影響も、もちろん重要なのですが、実際には、玉洲の絵の描写は、全体にとても繊細で、版本に基づくような線の硬さがあまり見られません。むしろ、豊かな色彩表現をもって、実感のある景色として描き出した点に、この絵の優れた魅力があるようです。
そうした魅力こそが、玉洲の初期作の大きな特徴でもあるのですが、あるいは、この絵などでは、玉洲がみずからの出身地である和歌浦の漁師たちの姿をオーバーラップさせることで、より実感ある描写と表現を獲得していったのではないかとも考えられるでしょう。
また、玉洲が集めていた扇面(せんめん)の絵とその筆者について、安永9年(1780)に玉洲自身が記した『桑氏扇譜考(そうしせんぷこう)』(個人蔵)という著作には、中国明時代の画家である「銭貢(せんこう)」が描いた「寒江漁艇図(かんこうぎょていず)」や「漁家集飲図(ぎょかしゅういんず)」、同じ明時代の画家の「袁源(えんげん)」が描いた「漁家楽図(ぎょからくず)」という作品が記載されています。このような、玉洲の集めていたが絵が、この絵のヒントになった可能性も考えられるかもしれません。
なお、サインに書かれている「継昇(けいしょう)」という署名は、玉洲が最初期に用いた雅号(がごう)とみられ、現在のところ、この絵だけに用いられているサインです。また、「継昇之印(けいしょうのいん)」(白文方印)というハンコも、他に使用例が知られていません。
その意味で、この絵は、玉洲の20歳代前半ごろに描かれた玉洲の最初期の作例として、また、玉洲が画業の初期から、こうした高い技術を身につけていたことを示す作例として、とても貴重といえるのです。
この絵の展示は、前期展示のみ、すなわち5月12日までです。玉洲の最初期の絵が見たい方は、ぜひ、12日までに、ご来館くださりませ。(学芸員 安永拓世)
→特別展 桑山玉洲のアトリエ―紀州三大文人画家の一人、その制作現場に迫る―
→和歌山県立博物館ウェブサイト