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金剛峯寺根本縁起写(館蔵品1030)

金剛峯寺根本縁起写(館蔵品1030)
弘法大師御手印縁起写とも呼びます。
当館で所蔵するものは、重要文化財 金剛峯寺根本縁起題跋(金剛峯寺蔵)の写本です。
 ※画像はいずれもクリックで拡大します。
1030御手印縁起写(巻首) (巻首)
1030御手印縁起写(絵図)3 1030御手印縁起写(絵図)2 1030御手印縁起写(絵図)1  (絵図部分)
1030御手印縁起写(巻末)3 1030御手印縁起写(巻末)2 1030御手印縁起写(巻末)1  (巻末)
【翻刻等】
・弘法大師著作研究会編『定本 弘法大師全集』第七巻(高野山大学密教文化研究所、1992年)
【内容】
金剛峯寺根本縁起(弘法大師御手印縁起)は、弘法大師空海による御遺告の一つで、
 ①弘仁7年(816)7月8日付の太政官符、
 ②同年7月28日付の紀伊国符、
 ③高野山四至注文、
 ④高野山絵図、
 ⑤承和元年(834)9月15日付の大師御記文、
 ⑥承和3年7月27日付の紀伊国判
という六つの史料を一括したものをいいます。
特に①と⑤に弘法大師の御手印と称するものが捺されているため、
「弘法大師御手印縁起」とも呼ばれています。
弘法大師の時代から高野山周辺の広大な地域が寺域として認められていたことを主張するものですが、
実際には平安時代(11世紀末頃)に作成されたと考えられています。
 
高野山金剛峯寺では、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、
この御手印縁起に書かれた範囲(四至内)が本来の寺領であると主張し、
近隣荘園とその領有をめぐって激しい相論を繰り広げていました。
御手印縁起は、金剛峯寺の寺領荘園を拡張するためのものとして、
また寺領荘園の一円支配(地頭などの排除)実現を正当化するものとして機能していました。
元弘3年(1333)、後醍醐天皇は高野山金剛峯寺の旧領の主張(御手印縁起の正当性)を認め、
綸旨を下し(「元弘の勅裁」)、高野山金剛峯寺の旧領を保証しました。
これにより高野山金剛峯寺の旧領内で展開された相論は一応の決着をみて、
高野山金剛峯寺は以後、紀ノ川以南、貴志川以東、有田郡以北の荘園支配を進めていくことになります。
この資料は、高野山金剛峯寺の主張を支持する後醍醐天皇によって
建武2年(1335)に書写された金剛峯寺根本縁起題跋(金剛峯寺蔵、重要文化財)を、
さらに江戸時代に写したものです。
巻末には、稚拙な筆致ながら原本と同様に弘法大師・後醍醐天皇の朱の手印の形もあらわされ、
末尾には「以此本為擬正文/所捺手印也自今/已後不可出寺外故/也」と記されています。
後醍醐天皇は、紀ノ川以南、貴志川以東を高野山金剛峯寺領とすることを正式に認めたのでした。
なお現在、後醍醐天皇の御手印を写した金剛峯寺根本縁起(弘法大師御手印縁起)の写しは
ほとんど知られていません。
(当館学芸員 坂本亮太)

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