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夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料の紹介(5)

引き続き、夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。
Ⅴ 梧陵に学ぶ ー「災害の記憶」の継承ー
 平成二七年(二〇一五)一二月に日本が主導して国連総会本会議で「世界津波の日」(一一月二日)が採択され、翌年から「世界津波の高校生サミット」が開催されています。同二八年は高知県、同二九年は沖縄県、同三〇年は和歌山県で開催され、和歌山県においても高校生が日本の津波の歴史や防災・減災の取組を学ぼうとする機運が高まっている状況にあります。
 当館では、県立文書館、文化遺産課、歴史資料保全ネット・わかやまの協力を得て、平成二六年度から国庫補助金を活用して、「災害の記憶」の発掘・共有・継承事業をおこなっています。今年三月、『「災害の記憶」を未来に伝えるー和歌山県の高校生の皆さんへー』を発行しました。和歌山県立博物館または和歌山県立文書館では無料配布しています。ここでは、掲載した資料の一部を紹介します。文末に記した〔冊子番号○〕は『「災害の記憶」を未来に伝える』の掲載した番号です。
46QRコード(画像はクリックで拡大します)
和歌山城下町での安政地震の被害を記す
46万代日並記(岡本家文書) (画像はクリックで拡大します)
46 万代日並記(岡本家文書) 一冊 嘉永七年(一八五四) 個人 和歌山県指定文化財
 福田村(紀美野町)の庄屋を務めていた岡本家には、天明六年(一七八六)から文久三年(一八六三)までの七七年間、親・子・孫の三代にわたって書き継がれた日記が残っています。岡本家は地震の被害を受けなかったようで、後日、見舞いのため和歌山城下を訪れています。嘉永七年一一月八日条には、和歌山は地震で大きく破損し、浜の方は津波で多くの人が出たようだと記されています。〔冊子番号2〕
一九五三年の集中豪雨の被害状況を記した地図
47花園村災害調査図_全体(全体) 47花園村災害調査図_拡大(部分拡大)
(画像はクリックで拡大します)
47 花園村災害調査図 一舗 昭和二八年(一九五三) 和歌山県立文書館
 昭和二八年七月一八日の集中豪雨によって、花園村(かつらぎ町の一部)では土砂崩れ(ピンク色)が発生しました。この時、崩れた土砂が谷を埋め、天然ダムが形成されました。さらに九月二五日に台風が襲来して、大雨となったことから天然ダムが決壊し、再び有田川は氾濫しました。この図は、被災直後に地元に住む坪井初太郎氏が実地調査をおこなって制作したものです。災害の大きさを生々しく伝えています。〔冊子番号3〕
宝永地震津波の比井浦での被害を書き記す
48古今年代記(画像はクリックで拡大します)
48 古今年代記 一冊 江戸時代(一八~一九世紀) 和歌山県立博物館
 比井浦(日高町)で廻船業を営んだ村上家の当主が、比井浦の歴史を記したものです。宝永四年(一七〇七)の大地震津波について、「比井浦の津波被害は若一王子神社の段橋三段目まで、長覚寺の屋敷門口まで到達し、四郎右衛門家は屋敷から土蔵にいたるまで流された」と記されています。〔冊子番号7〕
安政地震津波の横浜村での被害を書き記す
49津波之由来記録下書DSC_1956(画像はクリックで拡大します)
49 津浪之由来下書 一冊 嘉永七年(一八五四) 和歌山県立文書館
 横浜村(由良町)に住む毛綿屋平兵衛が被災直後に記した記録です。横浜村の低い所で約四・五m、宇佐八幡神社付近では本殿前石段の六段目まで、山のような津波が押し寄せました。津波は由良川をさかのぼって、現在の入路交差点付近から里集会所あたりまで到達しました。〔冊子番号9〕
宝永地震に伴う津波への防災対策の痕跡
50日高川河口絵図(画像はクリックで拡大します)
50 日高川河口絵図 一舗 天保三年(一八三二) 個人
 日高川河口の名屋浦(御坊市)周辺の絵図です。右端を北から南に流れているのが日高川、左端を北から南に流れているのが西川です。日高川右岸の五軒屋松と呼ばれた場所から西川左岸にかけて、「波除堤」と呼ばれる防波堤が描かれています。この「波除堤」は、宝永四年(一七〇七)の大地震津波から六年後に完成しました。現在、堤は跡形もなくなっていますが、江戸時代の防災対策を知るうえで貴重な絵図といえます。〔冊子番号10〕
宝永地震津波の印南浦における浸水域を示す
51高波溺死霊魂之墓(写真)(高浪溺死霊魂之墓)
51拓本「高波溺死霊魂之墓」碑-1(正面) 51拓本「高波溺死霊魂之墓」碑-2(左側面)
51拓本「高波溺死霊魂之墓」碑-3(背面) 51拓本「高波溺死霊魂之墓」碑-4(右面)(画像はクリックで拡大します)
51 拓本 高浪溺死霊魂之墓 四枚 現代 和歌山県立博物館
 印定寺(印南町)の境内に、宝永四年(一七〇七)の大地震津波で亡くなった人を供養するため、享保四年(一七一九)に建立された「高浪溺死霊魂之墓」があります。背面に、津波が札之辻では約一八〇㎝、印定寺山門の門柱では約六〇㎝、山口村との村境まで来たと記されています。墓碑は、今年、印南町指定文化財に指定されました。〔冊子番号11〕
安政地震津波に襲われた際の避難場所を示す
52為後カガミ碑(写真)(為後鍳)
52拓本 「為後カガミ」碑-2(正面) 52拓本 「為後カガミ」碑-1(背面)(画像はクリックで拡大します)
52 拓本 為後鍳 二枚 現代 和歌山県立博物館
 嘉永七年(一八五四)の大地震津波の二年後に、避難場所の大日山(すさみ町)に建てられました。山上では大日講が行われました。準備で山に登る時、区長が先頭で小太鼓を鳴らし、後に続く人たちは掛け声をだしながら登りました。これは、夜間の津波来襲を想定した避難訓練でもありました。石碑は、今年、すさみ町指定文化財に指定されました。〔冊子番号14〕
昭和東南海地震津波に襲われた惨状を伝える
53天満の大津波記念碑(写真)(天満の大津浪記念碑) 53拓本 天満の大津波記念碑(画像はクリックで拡大します)
53 拓本 天満の大津浪記念碑 四枚 現代 和歌山県立博物館
 昭和一九年(一九四四)の昭和東南海地震津波の襲来から六年後である昭和二五年三月に、天満天神社の敷地内に大津浪記念碑が建てられました。津波襲来当時の那智国民学校校長であった東玉次氏が、自分がみた地獄の光景を後世に伝えようと文面を作りました。字は青岸渡寺住職の中森亮順氏が担当しました。石碑は、那智勝浦町指定文化財に指定されています。〔冊子番号19〕
流木の再利用で、安政地震の記憶を伝える
54南珠寺DSC_1958(画像はクリックで拡大します)
54 南珠寺旧山門部材 一点 安政五年(一八五八)ヵ 南珠寺
 嘉永七年(一八五四)の大地震津波で被害を受けた南珠寺(新宮市)の山門が、四年後に再建されました。この部材は、再建された山門の門扉に使われていたとみられる部材(中桟)で、その一面に一一月四日の東海地震や五日の南海地震の様子が記されています。寺の言い伝えでは、津波で流されてきたケヤキの木を用いたとされています。〔冊子番号21〕
宝永地震で破損した新宮城石垣の修復願い
55新宮城絵図(画像はクリックで拡大します)
55 紀州新宮城絵図 一舗 宝永五年(一七〇八) 和歌山県立博物館
 宝永四年の大地震で大破した新宮城の修復願いを、江戸幕府に提出するために作成された図面です。各郭の石垣が正確に描かれ、被害を受けた大手道を登り、水ノ手から松ノ丸への道、登坂越の道が赤く彩られています。また、二ノ丸の北東側にある大手道の石垣をみると、破損部分が朱線で囲まれています。〔冊子番号22〕
(主任学芸員 前田正明)
→濱口梧陵
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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