明神講式(館蔵品1031)
明神講式は丹生明神講式とも呼ばれ、丹生高野四社明神を賛嘆する講式です。
紙本墨刷。
(巻首) ※クリックで拡大します。
(巻末・跋文) ※クリックで拡大します。
(跋文)
「跋
斯式也、行于世卯本杜撰不少歌詠之士憾
之久矣、幸蔵書本乃吾先師前寺務理峯
自西禅榮融大和尚所伝而古記言式、即雖
存八聲而不可過七聲、只加秘聲而八聲
也者、於是具存矣、歌詠之士捨此而、亦何有
乎、因為使衆便歌詠月輪院良辨上綱共校
上木以為此院蔵梓、
明和戊子之春
南山普門院廉峯謹識
[印][印]
書肆
経師八左衛門 」
巻末の跋文には、明和5年(1768)南山普門院廉峯の識語と書肆経師八左衛門の刊記を記し、
版行年と出版者がわかります。
西禅院の榮禅から普門院の理峯へ伝えられたものを、月輪院良辨が校正したうえで、
普門院の廉峯が刊行したもの。
榮融は、高野山西禅院の僧で、武蔵国金澤富岡村(神奈川県横浜市)の生まれ。
はじめ徳厳院、次に宝塔院に移り、享保3年(1718)には高野山検校となり、
翌年、西禅院に移ります(そのほか五智院の院主も兼ねる)。
声明をよくし、西禅院流を立てたことでも知られます。享保16年入寂。
理峯は、この講式の刊行者である廉峯の師で、高野山普門院の僧。
大和五条(奈良県五條市)の生まれ。俗姓は赤坂氏。
高野山高善院を経て、普門院へ移ります。宝暦8年(1758)に82才で入寂。
月輪院良辨は、詳しい事蹟は不明で、明和7年(1770)に亡くなっています。
普門院廉峯は、高野山普門院の僧で、大和国五条(奈良県五條市)出身、俗姓は赤坂氏。
理峯とは同じ一族(親戚)かもしれません。
普門院の理峯について剃髪受戒。明和9年(1772)に54歳で入寂。
南山進流声明の碩学として知られ、多くの弟子を輩出しています。
この明神講式は廉峯の晩年に刊行されたものだということがわかります。
この跋文から、廉峯が版行したこの丹生明神講式は、
西禅院の榮融の流れを汲む声明がもとになっていることがわかります。
声明の系譜を知ることができる跋文としても興味深いものがあります。
なお、末尾にある「経師八左衛門」は高野山の書肆です。
この講式のなかで特に注目されるのは、三宮、四宮の祭神の表記です。
一宮丹生明神、二宮高野明神に続き、三宮の神について、
「第三讃三大神宮慈悲者、尋本地者是深位也、千手千眼之観音、三十三之惣躰也、(中略)出彼蓮臺九品之宮、生丹生権現之王女、卜此檜杉四所之社、化高野明神之御妹、擁護大師之密教、潜衛高祖之末資(後略)」とあり、
三大神宮と呼ばれ、本地が千手観音であること、丹生権現の王女で高野明神の妹であることを記しています。
(三宮の神に関わる記載) ※クリックで拡大します
四宮の神については、
「第四讃四宮権現随類者、本地者古佛大辨財天、垂迹者丹生明神之御息也」とあり、
四宮権現と呼ばれ、本地が大弁才天、丹生明神の子であることを記しています。
(四宮に関する記載) ※クリックで拡大します
一般的に丹生高野四社明神の祭神名については、
丹生明神・高野明神・気比明神・厳島明神と理解されています。
しかし、この講式によると、三宮が三大神宮、四宮が四宮権現として祭祀されていたことがわかります。
高野山の鎮守である神々についても変遷があったことが想像されます。
この講式は、高野山をめぐる神祇の諸相と歴史の実像を示す資料としてもあらためて注目する必要があります。
なお、三宮・四宮の祭神名の検討については、
『高野山開創と丹生都比売神社―大師と聖地を結ぶ神々―』(和歌山県立博物館、2015年)で、
高野山真別処円通寺の丹生明神講式とともに掲載・紹介しています。
(当館学芸員 坂本亮太)