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「古今年代記」を読む(2)―比井廻船のはじまり―

前回に引き続いて「古今年代記」を読んでみます。
「古今年代記」には、比井廻船の始まりについても記されています。
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(本文)
一比井ニ廻船ノ始リハ、宝永六己丑年比、摂州
 西ノ宮浦へ入込、夫より次第廻船相増候、夫迄ハ大坂
 ニ而仕立申候舟ハ〈中ノ松次郎茂太夫ノ船/西田覚大夫ノ明虎丸〉三艘歟候処、
 宝永六年ニ西宮ニ酒屋余程出来〈伊丹ヲ見習/酒造初申候由〉
 樽積問屋も初り申候ニ付、〈此時問屋とハ不申/支配と申候而掛り物無数候〉
 大坂よりハ諸掛り物無数勝手宜ニ付、入込候船ハ
 松次郎船也、覚太夫船と申候、夫より明虎丸・福寿丸
 是より段々廻船相増及数艘候、
(内容)
比井の廻船の始まりは、宝永6年(1709)ごろに、
摂津国西宮(兵庫県西宮市)の人が比井浦へ関わるようになり、
それ以来、次第に廻船が増えていった。
それまでは、大坂で船を仕立てていた船は
「中ノ松次郎茂大夫船」・「西田覚大夫明虎丸」などの三艘くらいあったところ、
宝永6年(1709)に西宮の酒屋が多く出てきて
(伊丹〈兵庫県伊丹市〉を見習って、酒造りをはじめたということらしい)、
酒樽を積む問屋も出て来たので
(この時は「問屋」といわず、「支配」と呼び、「掛り物」(付加税)がたくさんあった)、
大坂からは色々な「掛り物」が多くあり、(比井浦の方が)都合が良いと言うことで、
松次郎の船が比井浦へ入って来た。覚大夫の船もあった。
その後、明虎丸・福寿丸など段々と廻船が増え、比井浦の船は数艘になった。
以上がこの記録の概要です。
比井の廻船は宝永6年(1709)以来、
西宮の酒屋によって初められたことがわかります。
大坂では色々な「掛り物」があるため、
比井浦の廻船を仕立てたというのが理由のようです。
また、当時は三艘くらいで、徐々に廻船が増えていったようです。
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(現在の比井浦の風景)
さて、この記事について、ちょっと気になることがあります。
というのも、この宝永6年(1709)という年は、
宝永4年(1707)10月の津波からわずか約1年半後だということです。
「掛り物」(付加税)が理由ともありましたが、
もしかしたら災害復興ということもあったのではないか、
とみるのは少し考えすぎでしょうか?
さらにいえば、前々回のコラムでも触れましたが、
宝永4年(1707)の津波で広浦の波戸場は壊滅的な打撃を受け、
各地からの廻船も寄港できないような状態になっていました。
そのようななか注目されたのが、比井浦だったのかも知れません。
そして比井浦の廻船が始まった事で、
広浦の波戸場もしばらく(100年くらい)修築しなくても
廻船業者はなんとか船をまわすことができたのかもしれません。
時期が近接しているというだけで、それ以外に明確な根拠はないのですが、
もしこのような推測が的を射ているとするならば、
津波は、港町を中心とした地域の経済・流通構造を大きく変えた事件だったとも言えます。
そして、その際に西宮からの資本を得て復興を遂げたのかもしれません。
一見関係ないようなことであっても、
各地の海沿いの村・町の歴史とその変遷を関連づけながら
考えてみるのも大事なことかもしれません。
〈詳しく知りたい方ヘ〉
・上村雅洋「近世廻船業者の活動と在村形態―紀州日高郡薗家・村上家の場合―」『和歌山県史研究』8号(1981年)
・『日高町志』上巻(1977年)
・日高町教育委員会『日高町の文化財 第二号 特集比井若一王子の文化財』日高町教育委員会、1982年)
・『和歌山県史』近世史料五(1984年) p.846~864
       
                (学芸員 坂本亮太)

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