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「広浦大波戸再築記録」を読む-災害からの復興-

今回も広浦の記録を読みましょう。
ただ史料は「広浦大波戸再築記録」(広川町教育委員会蔵)に替わります。
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この記録は、宝永4年(1707)の津波で被災した広浦の復興計画を記したもので、
波戸場を修築することで廻船の寄港を促し、
広浦を昔のように繁栄させようと目指したものでした。
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(本文)
一広・湯浅両村者、御城下より南江取、御国内之
 商内場所ニ候得共、三里之入海ニ而船懸り湊無之
 候故、他国諸廻船繋場を恐レ入船無数爾今
 繁昌不致候所、右波戸場御普請成就後、諸
 廻船入船多、自然と土地柄致繁昌、広村寛
 文年中迄者家数六百余軒ならては無之所、
 宝永四年亥九月家並判帳尻ニ記所、千八
 十六軒有之、然者寛文年中より宝永四
 年迄、年限四十年余之間ニ家数四百余軒相増
 土地柄弥以致繁昌候処、
(内容)
広・湯浅の両村は、和歌山城下から南へ行ったところにあり、
紀伊国内のうちでも商業地であるが、3里(約12キロ)内側に入り込んだ場所で、
船を泊める港がないため、他国からの廻船は船繋ぎ場がないことを恐れ、
広浦に入る船はなくなり繁昌しなくなってしまった。
もし、波戸場が完成したならば、諸国からの廻船が多く集まり、
自然と広浦も繁昌するようになるだろう。
広村は、寛文年間(1661~73)には家数600軒もないようなところであったが、
宝永4年(1707)9月に家数を書き上げた帳面によると1086軒もあった。
そうすると、寛文年間から宝永4年まで、実に40年の間で家数は400軒も増えており、
広浦はますます繁昌していた。
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(本文)
同年十月四日、高汐ニ而
右波戸場打崩、広村家数六百余軒致流失、相残
所漸々四百軒余ニ相成、其後波戸御普請も出来
不申、土地柄致衰微候処、正徳年中以来関東
行網方大漁打続、日向行網方も同然ニ而、致旅
稼候者繁昌ニ而、追々致分家、家数相増再六百軒
余ニ相成、土地柄立直候処、
(内容)
しかし、宝永4年(1707)10月4日の津波で、広浦の波戸場が打ち崩れ、
600軒ほどが流失した。残った家は400軒ほどになり、その後、
波戸場も修理されないままであったので、自然と広浦は衰退していった。
正徳年間(1711~16)以来、関東に行き漁師稼ぎに出ていた者たちの大漁が続き、
また日向(宮崎県)へ行っていた漁師も同様で、
他国へ行っていた漁師が繁昌したため、徐々に分家を増やし、
家数も再び600軒ほどになり、広浦も立ち直ってきた。
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(本文)
延享年中より関東筋
不漁打続、宝暦年中迄ニ網方不残致退転、家
数自然と相減、亦々四百二・三十軒ニ相成、土地柄
致困窮、大難渋村ニ落入、村中世業難相成
面々難儀迷惑いたし、依之、飯沼仁兵衛殿何卒
村柄立直しをも存心ニ而波戸再築之儀思イ立、安永
十年丑二月波戸再築願書初而差上被申候、
(内容)
しかし、延享年間(1744~48)から関東方面での漁業が不振となり、
宝暦年間(1751~64)には漁師稼ぎに出ていた人たちも廃れ、家も減り、
また420・30軒ほどになり、困窮し、生活していくのが難しい村になってしまった。
広村で暮らしていくのが難しくなり、広の人びとは皆苦しみ迷惑しております。
そのため、飯沼仁兵衛が、村を建て直すために波戸場再築を思い立ち、
安永10年(1781)2月に波戸場再築するための願書を初めて差し上げました。
以上が、おもな内容です。
津波などからの復興に際し、波戸場を再び整備することで、
昔の繁栄を取り戻そうと計画していたようです。
しかし、波戸場が70年近く修復されずにいたこともまた驚きです。
さて、宝永4年で被災した家屋数がこの古文書では600軒、
先に紹介した記録(「広浦往古ヨリ成行之覚」)では400軒
と少し食い違っています。
被災家屋が60%か40%かとなると大きな違いです。
600軒程度で、漁業の豊漁が続き600軒まで持ち直したことでもって、
先に記した「広浦往古ヨリ成行之覚」は被災家数400軒、残った家数600軒
としたのかもしれません。
逆に豊漁が影響ではなく、もともと被災を免れたのが600軒であったのかもしれません。
別の記録では、被災家屋は700軒とも出てくるそうです。
残念ながら、どれが真実か今のところはっきりしません。
また、宝永4年の津波後、豊漁が続いて広浦が少し栄えたということも
これまでの記録では見ることができませんでした。
今回の記録は、「広浦往古ヨリ成行之覚」を補足する内容を含んでいます。
複数の記録を見比べることで、一つの出来事も別の角度から検証可能ですし、
また分からないことを補ってくれる場合もあるのです。
改めて古文書の内容の魅力とその限界についても
知っていただければ幸いです。
さて、この出願の結果どうなったか。
出願していから12年の歳月が経った寛政5年(1793)にようやく藩から許可が下り、
波戸場の修築工事が開始されます。
しかも、工事は享和2年(1802)まで三工期に分けて、約10年間かかりました。
波戸場が完成するのは、津波被害から数えると実に100年後のことになります。
工事費用も合計59貫ほどかかったようです。約10貫が藩の負担でした。
しかも、藩は最初4貫を負担し、後に2貫・1貫・2貫と支給し、
合計約10貫を負担(18%)したようです。
それ以外は、広浦の商人や漁業従事者が約22貫(38%)、湯浅浦が約5貫(8%)、
残りは各地の廻船商人や江戸の干鰯問屋などからの負担を得ていました。
広浦の復興は、広・湯浅の人びとだけでなく、
江戸の商人や廻船商人にも期待されていたようです。
災害からの復興に多大な時間と費用を要したこと、
また広・湯浅に住む人びとの復興にかけた努力には、
改めて注目したいと思います。
しかし、弘化4年(1847)には波戸場に土砂が溜まり、
再度修築しなければなりませんでした。
被災の状況を知ると同時に、どのように復興をしてきたのか、
そういった事を知るうえでも、改めて古文書に注目していただければと思います。
展示室内では、「広浦往古ヨリ成行之覚」と「広浦大波戸再築記録」は、
漁業と廻船というテーマが異なるため、別々のところで紹介しています。
しかし、これまでのコラムで紹介したように、一連の広浦の変遷を知るうえでは、
両者は密接に関わっています。
是非とも見比べて観覧いただければと思います。
〈詳しく知りたい方ヘ〉
・笠原正夫「他国出漁の衰退と漁村の変質―広浦干鰯商人と波戸場修築―」
 (『近世漁村の史的研究』名著出版、1993年)
・『和歌山県史』近世(1990年) 第六章第3節
・『和歌山県史』近世史料五(1984年) p.683~689
                                   (学芸員 坂本亮太)

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