トップページ >博物館ニュース >コラム きのくに荘園の世界? 2枚の荘園絵図

コラム きのくに荘園の世界? 2枚の荘園絵図

かせ田荘絵図
 現在のかつらぎ町西北部あたりに、かつて「かせ田荘」と呼ばれた荘園がありました。現在、笠田中・笠田東などの大字がありますが、およそそのあたりに位置していました。このかせ田荘(正確には「木」扁に「上」「下」という字を使います)は、当時荒廃していた京都の神護寺の復興をめざす僧・文覚の強い要請を受けて、寿永2年(1183年)、後白河上皇によって神護寺へと寄進された荘園です。このかせ田荘については、平安時代後期から鎌倉時代前期に制作されたと考えられる絵図がよく知られており、現在に至るまで神護寺に所蔵されています。
 この絵図の特徴は、荘園の中核となる寺社や川沿いの集落の他、河川やその水源となる山野、領域を東西に貫く道やその周囲に広がる耕地などが描かれている点と、それらを取り囲むように5ヶ所のボウジと呼ばれる黒い丸印が記されている点にあります。この黒い丸印は、荘園の境界を示す標識で、これによって区画された範囲が、このかせ田荘の領域であることをはっきりと明示しています。このことから、この絵図は、荘園の成立時に、その領域の様子をつぶさに知るために制作された領域絵図であると考えられてきました。
 一方、地元の宝来山神社には、この絵図とよく似たもう一枚の絵図が伝えられています。こちらの絵図は、その絵画表現の違いから、神護寺所蔵の絵図よりは後に制作されたものと考えられていますが、それだけでなく、紙の一部が切り取られ、神護寺所蔵絵図にはない、新たな文字が書き入れられた別の紙を貼り合わせるなどの改変が加えられていることが分かっています。つまり、はじめにこの絵図が制作された後、何年かたってこうした改変がなされたというわけです。この新たに貼り合わされた箇所には、そこがかせ田荘の領域内であることが強調される文字が記されており、かせ田荘の領域は神護寺所蔵絵図に記された範囲よりもさらに広いことが主張されていることが分かります。こうした改変がなされた背景には、かせ田荘と静川荘の間に、領域の帰属をめぐる激しい紛争があったことがうかがえます。
 実は、このかせ田荘は、その成立以来、西隣の静川荘や南隣の志富田(渋田)荘と、境界をめぐる紛争を繰り返していました。絵図をみても、南のボウジは紀ノ川を南側に超えた、志富田荘の領域に食い込むような位置に記されており、これが志富田荘との紛争の種となっていたことが容易に想定できます。かせ田荘を描いた絵図は、荘園の成立時に領域内をつぶさに描いた絵図というよりは、こうしたいくつかの紛争を解決するために、かせ田荘側によって制作されたものと考えた方がよさそうです。その意味でこの絵図は、荘園の「静」の様相を描いたものと言うよりは、紛争という「動」の側面をとらえた絵図ということもでき、解釈が一転したと言っても過言ではありません。2枚の絵図からこれだけの解釈を生み出すことのできるこの絵図は、大変貴重な絵図であることは間違いありません。ちなみにどちらの絵図も、現在、重要文化財に指定されています。(学芸員 高木徳郎)

ツイートボタン
いいねボタン