企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
15回目にご紹介するのは、野呂介于(のろかいう)です。
野呂介于(のろ・かいう)
◆生 年:安永6年(1777)
◆没 年:安政2年(1855)10月13日
◆享 年:79歳
◆家 系:和歌山城下の町医師である野呂隆基(のろたかもと、1739~1821)の二男。後に、紀伊藩士で文人画家の野呂介石(のろかいせき、1747~1828)の養子となる。
◆出身地:紀伊
◆活躍地:紀伊
◆師 匠:野呂介石
◆門 人:未詳
◆流 派:文人画
◆画 題:山水
◆別 名:周助・周輔・隆忠など
◆経 歴:紀伊藩士、文人画家。父の野呂隆基は、紀伊藩士で文人画家の野呂介石の次兄で、介于は介石の甥にあたる。寛政6年(1794)、介石が紀伊藩の支配方に願い出て、介于を養子とする。享和2年(1802)、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(1771~1853)に御目見を果たす。文政4年(1821)、「砂糖方」の「御用見習」となる。同年、紀伊藩の「御用」で大坂へ行く。文政11年(1828)、介石が亡くなったため、その跡を継いで「御大番」となり、切米25石をもらう。「砂糖方」の「御用見習」も兼務。天保2年(1831)、「御膳奉行格中奥詰」となり、年々銀5枚となる。天保3年(1832)、「中奥御番」を兼務。天保6年(1835)、「奥詰」となる。嘉永4年(1851)、「中奥御番」を兼務。介于は、藩士の公務においても、画業においても、介石のような華々しい活躍はみられず、画風も淡泊だが、病気がちだった晩年の介石のそば近くに仕え、その世話をしたようで、晩年の介石の作例には介于の家にあたる「介于軒(かいうけん)」で描いたと記したものがいくつか確認される。
◆代表作:「伊孚九筆意山水図(いふきゅうひついさんすいず)」(和歌山県立博物館蔵)天保14年(1843)、「山水図」(和歌山県立博物館蔵)嘉永4年(1851)など
今回展示しているのは、介于の代表作である「伊孚九筆意山水図」(和歌山県立博物館蔵)です。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
款記は「癸卯之夏写伊辛野/筆意于介于軒中/呂隆忠」で、印章は「介于」「隆忠」(白文楕円連印)、「介如石」(朱文楕円印)です。
介石は、現状でも200点以上の作品が現存している、きわめて多作な画家ですが、介于は残念ながら、それほど多くの作例が残されているわけではありません。ただ、残されている絵は、いずれも山水画であるため、山水を得意としたと考えられています。この絵は、天保14年(1843)、介于67歳のときに描いたとわかる貴重な作例です。右上には、介石も強い影響を受けた中国の清時代(しんじだい)の画家で、日本にも何度か訪れたことのある伊孚九(いふきゅう、1698~?)の画風で描いたことを表明しています。介石よりも、あまり描き込まず、画面全体はやや軽妙な印象がありますが、伊孚九はこうした軽い筆致の余白が多い山水図をよく描いたので、それらをまねたものと考えられます。介石が亡くなってから、このときすでに15年ほど経っていますが、伊孚九にあこがれた介石の思いや画風は、確実に介于にも継承されていたようです。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト