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コラム 紀州の画家紹介 18 野呂松廬(のろしょうろ)

企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
18回目にご紹介するのは、野呂松廬(のろしょうろ)です。
野呂松廬(のろ・しょうろ)
◆生 年:寛政3年(1791)
◆没 年:天保14年(1843)6月23日
◆享 年:53歳
◆家 系:和歌山城下の町人である野呂隆道(のろたかみち、生没年未詳)の二男。後に、和歌山城下の町医師である野呂隆基(のろたかもと、1739~1821)の養子となる。
◆出身地:紀伊
◆活躍地:紀伊・田辺・京都
◆師 匠:野呂介石(のろかいせき、1747~1828)
◆門 人:未詳
◆流 派:文人画
◆画 題:山水
◆別 名:九助・九介・隆訓・式夫・翼卿・槃澗・槃礀・盤谷・九鶴山樵・自娯居士など
◆経 歴:儒学者、文人画家。父の野呂隆道は、紀伊藩士で文人画家の野呂介石の十弟で、養父の野呂隆基は介石の次兄であり、松廬は介石の甥にあたる。若い頃、介石について絵を学んだようで、介石が描いた「仏手柑図(ぶしゅかんず)」(個人蔵)の識語(しご)や、文政11年(1828)の介石の晩年作である「歳寒三友図(さいかんさんゆうず)」(個人蔵)の箱書、介石が所用した「器局(ききょく)」(和歌山県立博物館蔵)の扉裏銘(とびらうらめい)など、介石ゆかりの作品への関与も多い。ただ、画家としてよりは、儒学者として知られ、紀伊藩の儒学者である山本東籬(やまもととうり、1745~1806)について儒学を学び、天保6年(1835)には、紀伊藩田辺領の安藤家に招かれ、家臣に儒学を教授したともされる。一時、有田郡湯浅(ありだぐんゆあさ)に住んだというが、後に京都へ出て塾を開き、京都で亡くなった。現存する作例は少ないが、いずれも山水画で、文人画風の表現を用いているものの、介石からの影響はさほど顕著ではなく、素人風の自由な筆致に特徴がある。ただ、嘉永6年(1853)刊行の『古今南画要覧(ここんなんがようらん)』にも、その名が挙げられていることから、あるいは画家としてもある程度の評価を得ていたものか。
◆代表作:「隠僲山居図(いんせんさんきょず)」(和歌山県立博物館蔵)天保12年(1841)、「山水図」(和歌山県立博物館蔵)天保12年(1841)、「山水図」(個人蔵)天保12年(1841)など
今回展示しているのは、松廬の代表作の一つである「山水図」(和歌山県立博物館蔵)です。
野呂松廬筆 「山水図」 (和歌山県立博物館蔵) 軽
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
野呂松廬筆 「山水図」 款記 (和歌山県立博物館蔵) 軽
款記は「蒼巌古松秀瑶芝肥/有霊山中春不老滚/滚一源水与人期千齢/辛丑春日松廬并題」で、
野呂松廬筆 「山水図」 印章1 (和歌山県立博物館蔵) 軽 野呂松廬筆 「山水図」 印章2 (和歌山県立博物館蔵) 軽 野呂松廬筆 「山水図」 印章3 (和歌山県立博物館蔵) 軽
印章は「隆訓」(白文方印)、「翼卿」(白文方印)、「自娯書屋図章」(朱文長方印)です。
松廬は、画家としてよりは、儒学者としての活躍が主だったようで、絵は、介石風な部分もありますが、より素朴で自由な表現に特徴があります。この絵は、おめでたい松と霊芝(れいし)を描いたもので、まだ介石からの影響が比較的うかがえる作例といえるでしょう。款記から、天保12年(1841)の春、松廬51歳のときの作であることがわかる点も重要です。(学芸員 安永拓世)
江戸時代の紀州の画家たち
和歌山県立博物館ウェブサイト

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