企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
22回目にご紹介するのは、松尾塊亭(まつおかいてい)です。
松尾塊亭(まつお・かいてい)
◆生 年:享保17年(1732)
◆没 年:文化12年(1815)7月14日
◆享 年:84歳
◆家 系:紀伊藩士の松尾十郎左衛門(まつおじゅうろうざえもん、?~1795)の長男
◆出身地:紀伊
◆活躍地:紀伊
◆師 匠:俳画の師は萍左坊(へいさぼう、生没年未詳)?
◆門 人:未詳
◆流 派:俳画
◆画 題:俳画・人物・山水
◆別 名:熊之助・三七・隆弘・槐亭・風悟・木鷄子・欠伸子・松塊翁など
◆経 歴:紀伊藩士、俳諧師(はいかいし)。明和3年(1766)、「御山方手伝」となる。安永元年(1772)、「中奥詰」となり、切米25石をもらう。安永2年(1773)、「御膳番」となり、切米35石に加増。天明8年(1788)、「御徒頭格中奥詰」となる。寛政7年(1795)、「中之間番頭之上」で300石の知行のあった父の十郎左衛門の家督を継ぎ、250石となる。寛政9年(1797)、隠居し、家督と知行200石を長男の九之丞(きゅうのじょう、生没年未詳)へ譲り、残る50石を隠居料としてもらう。幼少より諸芸に秀でたようだが、とりわけ俳諧を好み、当初、同じ紀伊藩士の朝倉貫考(あさくらかんこう、生没年未詳)に学ぶ。ただ、貫考の句を訂正したため破門され、後に、松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~94)の教えを受けた各務支考(かがみしこう、1665~1731)の門人である田中五竹坊(たなかごちくぼう、1700~80)に師事する。五竹坊から文台(ぶんだい)を譲られて俳諧師となり、紀州で多くの門人を育てた。絵は、素人風の軽妙な俳画が多く、一説によると奥羽出身の俳諧師で俳画をよくした萍左坊に俳画を学んだとするが、絵の師は未詳で、ほぼ独学とみられる。なお、『正風発句大概(しょうふうほっくたいがい)』『俳諧百画賛(はいかいひゃくがさん)』など、俳諧や俳画に関する著作も残す。また、支考門が句会を開く際に床の間を飾ったという「三頫図(さんちょうず)」も描いており、塊亭が支考門であったことを物語る事例として貴重。
◆代表作:「三頫図」(和歌山県立博物館蔵)文化元年(1804)、「和歌浦図巻(わかのうらずかん)」(和歌山県立博物館蔵)、「月次俳画帖」(和歌山県立博物館蔵)など
今回展示している作品は、「三頫図」(和歌山県立博物館蔵)です。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
画面左には「あふむくも/うつむくも/さひし/ゆりの花/獅子老人」という各務支考の句を塊亭が書いています。
左下の款記は「七十三叟/塊翁写」で、
印章は「松風悟」(白文方印)、「塊亭」(朱文方印)、「俳淫」(白文長方印)です。
この「三頫図」の「頫」とは、うつむくという意味で、本来は釈迦・老子・孔子の教えが同じであることを示す絵でしたが、各務支考の弟子たちは、句会を開く際に、こうした「三頫図」を床の間に掛けました。塊亭が、紀伊藩内で支考門の俳諧を伝えていたことを物語る貴重な作例ともいえ、文化元年(1804)、塊亭73歳のときの制作とわかる点も重要です。
なお、今回の展示では、もう一つ、「和歌浦図巻」(和歌山県立博物館蔵)も出陳しています。
(画像は三つに分かれています)
巻物の前半には、「和歌浦之賦」という文章を記し、後半に描かれているのが上の和歌浦の絵になります。
絵には款記がなく、「和歌浦之賦」の冒頭に「松塊翁」という款記があるだけです。
とはいえ、素朴で素人風の絵は、塊亭自身が描いたものとみられます。
絵画表現そのものは、かなり未熟ですが、要所要所の名所やビューポイントは的確で実景に近い位置に描かれており、当時の和歌浦の景観を知るうえでは、興味深い絵画資料といえるでしょう。
「三頫図」とともに、塊亭の素朴な俳画の魅力を、ぜひ、感じ取ってみてください。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト