左:寒山拾得図(県指定文化財) 右:柳に烏図(県指定文化財)
「天正の兵乱」(秀吉軍の南征)によって一時は荒廃した高山寺(当時は勧修寺もしくは願成寺と呼ばれていた)は、中興の僧・空増によって復興の道を歩み始めた。伽藍の整備が順次行われるのと同時に、江戸時代の中期以降、多くの書画が奉納されていることが、現存する文化財から確認することができる。
高山寺に伝来する近世絵画のうち、もっとも代表的なものが長沢芦雪の作品である。長沢芦雪は、丹波・篠山藩の武士の家に生まれるが、京都の画人・円山応挙について絵を学び、若くして頭角をあらわした。芦雪は、天明6年(1786)10月ころから、応挙の名代として紀南の寺院におもむき、成就寺(串本町西向)・無量寺(串本町串本)・草堂寺(白浜町富田)において多くの障壁画の作品を残している(いずれも国指定重要文化財)。それらの仕事を終えた芦雪は、天明7年2月12日に高山寺にも立ち寄り、3?4日の間にいくつかの作品を描いた。実はここで述べたことは、当時の高山寺住職であった義澄が残した記録「三番日含」(県指定文化財)の記載に全てもとづいている。さらに興味深いことに、近年全国的にファンの多い芦雪であるが、その人生には謎が多く、彼の素性・経歴についてここまで詳しく記したものは、この「三番日含」をおいて他はないという。
現在、高山寺に伝来する芦雪の作品は、「寒山拾得図」・「柳に烏図」(いずれも県指定文化財)、そして「朝顔図襖」(市指定文化財)である。「寒山拾得図」は幅160センチもある大幅、一方「柳に烏図」は幅27センチという細長い作品であるが、いずれも一気に筆を走らせて書き上げたものである。しかし、大胆な構図や空間の処理には、芦雪の特長がよく表れている。なお、「朝顔図襖」6面は10年ほど前に巻かれた状態で「発見」されたもので、現在は修理・復原されて、京都国立博物館に寄託されている(今回の特別展では展示していない)。(学芸課長竹中康彦)
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