南蛮服飾とは、桃山時代から江戸時代初期にかけて日本へ渡来した外国人である南蛮人(なんばんじん)の服飾(西欧服飾)の影響を受けて、日本で流行した服飾様式のことです。
その特徴としては、体の線にあわせて自由な形で裂(きれ)を切り出していく曲線裁断(きょくせんさいだん)や、高い立襟(たちえり)、襟部の装飾、太ももから膝(ひざ)にかけての部分に広い裂を用いたズボン状の衣服、ボタンやボタンを留めるループの使用などが挙げられます。
ところで、紀州東照宮に伝来する徳川頼宣(とくがわよのぶ、1602~71)所用の染織品の中には、こうした南蛮服飾の影響を顕著に受けた作例が数多く残されています。たとえば、今回展示している資料の中でも、
「紅地桃文様金糸入繻珍陣羽織(べにじもももんようきんしいりしゅちんじんばおり)」
をはじめ、
「白地雲文緞子鎧下着(しろじうんもんどんすよろいしたぎ)」
や
「白地雲文緞子襞襟(しろじうんもんどんすひだえり)」
「赤地紗綾縮緬襞襟(あかじさやちりめんひだえり)」
「白地牡丹唐草文緞子襞襟(しろじぼたんからくさもんどんすひだえり)」
「茶麻地葵の葉散小紋鎧下着(ちゃあさじあおいのはちらしこもんよろいしたぎ)」
「赤茶麻地牡丹唐草小紋鎧下着(あかちゃあさじぼたんからくさこもんよろいしたぎ)」
などには、いずれも、曲線裁断、高い立襟、襟の装飾、ボタン、ループの使用といった点で、南蛮服飾の影響が確認されるのです。
これらの資料は、いずれも頼宣所用の「縹糸威胴丸具足(はなだいとおどしどうまるぐそく)」とともに、鎧櫃(よろいびつ)の中に一括で収められて紀伊徳川家へ伝来したもので、それを明治9年(1876)に旧紀伊藩主の徳川茂承(とくがわもちつぐ、1844~1906)が南龍神社(なんりゅうじんじゃ)へ奉納したと伝えられています。
南龍神社は、南龍公(なんりゅうこう)とも呼ばれた頼宣をまつる神社で、明治8年(1875)に創建されましたが、大正6年(1917)に紀州東照宮へ合祀(ごうし)されました。
その南龍神社へ奉納された「縹糸威胴丸具足」は、「初陣具足(ういじんぐそく)」とも呼ばれ、大坂冬の陣へ初陣する13歳(数え年、以下年齢は数え年)の頼宣のために作られたという伝承のある武具で、その寸法がやや小ぶりであることも、こうした伝承を裏付けています。先に挙げた南蛮服飾の影響がうかがえる一連の頼宣所用の染織品も、大半は小ぶりで少年用とみられることから、同じときに初陣用として一括で制作されたものと考えられているものです。では、弱冠13歳の頼宣の初陣用武具が、なぜ、このような南蛮服飾ばかりになったのでしょうか。
そもそも、こうした南蛮服飾は、南蛮人が日本へ渡来するようになった桃山時代以降からみられるものですが、当然、素材や形状などにこだわった特注品でもあったため、当時としても非常に貴重なものであったとみられ、現存する作例は、戦国大名やその重臣などの着用品が多いといえます。それゆえ、現存する南蛮服飾の大半は、鎧下着や陣羽織などの武具類であるというのも大きな特徴です。
考えてみれば、戦国大名にとっての晴れ着は、いわば戦場で着用する武具ですから、そうした晴れ着に、新奇でファッショナブルな南蛮服飾を用いるのは、ある意味では当然ともいえます。また、戦場では、みずからの活躍を誇示し、敵を威嚇(いかく)するために、派手で目立つ武具を着用する必要もありました。しかし、同時に、鎧下着などの、あまり目立たない部分にも南蛮服飾の影響がうかがえるのは、実用的な意味もあったのではないかと想像されます。すなわち、体の線にそって曲線裁断してあるがゆえに、まさしくオーダーメイドとして、鎧の下でも体にフィットした鎧下着が、動きやすさなどの点で、評価されたとも考えられるのです。
こうしたことを念頭に、あらためて頼宣の武具に南蛮服飾が用いられている理由を考えてみると、そこには、深い愛情で頼宣を育てた父・徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)の姿が浮かび上がってくるといえるでしょう。家康が、南蛮服飾を好んだことについては、尾張徳川家や水戸徳川家に伝来した家康の遺品からもうかがわれ、そうした中には、水戸徳川家伝来の「白襟巻(しろえりまき)」(徳川博物館蔵)なども存在します。また、紀州東照宮にも、
「南蛮胴具足(なんばんどうぐそく)」
や「金唐革陣羽織(きんからかわじんばおり)」などの南蛮服飾が家康所用品として伝えられているのです。これらは、当然ながら、戦場で目立つ存在でもありましたが、同時に、鉄砲で何度も強度を試し打ちされた「南蛮胴具足」のように、実用性を兼ね備えたものでもありました。おそらく家康は、南蛮服飾の装飾性と実用性を、ともに理解していたと考えられます。
であるならば、13歳で初陣する頼宣が、みずからの趣向のみで、先の一連の初陣用武具を制作させたと考えるよりは、そば近くで頼宣を育ててきた戦場経験豊かな家康が、愛しい頼宣用に作らせたと考える方が、より自然ではないでしょうか。南蛮風の派手な目立つ武具で、華々しく初陣を飾ってほしいという願いとともに、万一の際には、動きやすい鎧下着が役立ってほしいという父親の願いが込められているとも解釈できます。すなわち、頼宣の初陣用の武具に南蛮服飾が多数採用されたのは、その装飾性と実用性とを熟知していた家康ゆえの選択だったのではないかと想像されるのです。
こうした家康の思いは、南蛮服飾というレベルを超えて、その武具の文様からも垣間見ることができます。たとえば、「紅地桃文様金糸入繻珍陣羽織」には、吉祥の「壽(ことぶき)」字や長寿を示す桃の文様が用いられ、「白地雲文緞子鎧下着」や「白地雲文緞子襞襟」には、吉祥を示す瑞雲文(ずいうんもん)が、「赤地紗綾縮緬襞襟」・「白地牡丹唐草文緞子襞襟」・「赤茶麻地牡丹唐草小紋鎧下着」には、富と権力を象徴する牡丹(ぼたん)の文様があらわされているのです。南蛮風の形状を取り入れながら、その裂に中国製とみられるものが多く採用されている背景には、高価で貴重な裂を使えるというステータスとともに、こうした文様の持つ意味や寓意(ぐうい)の吉祥性を重視する志向があったとも考えられるでしょう。
頼宣の初陣用の武具は、装飾・実用・吉祥というさまざまな側面で、家康の愛情によって守られているといえるのかもしれません。それゆえに、紀伊徳川家でも、代々大切に守り伝えてきたのではないでしょうか。これらの染織品の奇跡的な保存状態に、そうした武将たちの切なる願いを感じずにはいられません。(学芸員 安永拓世)
→特別展 華麗なる紀州の装い
→和歌山県立博物館ウェブサイト