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コラム「野呂介石の生涯」8

今日は、コラム「野呂介石の生涯」の8回目です。
8 指導―次世代の文人画家や弟子たちとの交流
介石ほか筆「泉石嘯傲図」2(画像クリックで拡大します)
泉石嘯傲図(せんせきしょうごうず) 野呂介石・阪上梅圃ほか筆 文政4年(1821) 和歌山県立博物館蔵
 文化年間(1804-18)の中期ごろにかけて、穏やかで温雅な独自の画風を確立していった介石は、次第に全国的にも名を知られるようになりました。当時の介石は、池大雅(いけのたいが、1723-76)の高弟として認識されていたようですが、いずれにせよ、全国からさまざまな文人たちが、介石の教えを受けるために紀州を訪れています。そうして介石の教えを受けた文人たちの中には、次世代の画壇を担っていくような重要な画家たちも含まれていました。
 また、介石は、紀州の中でも、もちろん優れた画家として知られていたため、多くの弟子がついたようです。文化年間(1804-18)の後半から晩年の文政年間(1818-30)にかけての介石の作品の中には、そうした弟子たちへの指導や交流をうかがわせるものが、数多く含まれています。弟子たちと集って描いたような寄合描(よりあいがき)と呼ばれる合作もありますし、弟子たちへ贈られた作品も介石の指導をうかがわせる点で重要です。
 こうした次世代の文人たちとの交流を通して、介石はみずからの画風をさらにレベルアップさせ、また、その画風を広く伝えていったといえるでしょう。介石の活躍と指導は、紀州の画壇全体に大きな影響を与えたのです。(学芸員 安永拓世)
特別展 野呂介石
和歌山県立博物館ウェブサイト

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