今日は、コラム「野呂介石の生涯」の9回目です。
9 晩年―藩主のお褒(ほ)め「山色四時碧(さんしょくしじへき)」
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王維画訣図巻(おういがけつずかん) 野呂介石筆 文政2年(1819) 個人蔵
文政2年(1819)2月、和歌山城下の西郊(現在の県立和歌山工業高校付近)に、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771-1852)が築かせた「西浜御殿(にしはまごてん)」と呼ばれる別邸が完成しました。治宝は、以後この別邸に滞在し、御庭焼(おにわやき)を焼くなど風雅な生活を送ったのです。治宝から破格の待遇を受けていた介石は、この西浜御殿の造築にあたり、障壁画(しょうへきが)の制作に携わったと伝えられていますが、その詳しい経緯はよくわかっていません。ただ、同じ年の5月22日には、治宝から「山色四時碧(さんしょくしじへき)」という治宝自筆の書を賜(たまわ)ったことが知られています。おそらく、障壁画制作への褒美(ほうび)でもあったのでしょう。この治宝の書を賜った介石は、その言葉の一部を引用して、以後「四碧斎(しへきさい)」と号しました。そのため、晩年の作品には、多く「四碧斎」の印章が用いられているのです。
晩年の介石の作品には、こうした紀伊藩とのかかわりで制作されたものが少なくありません。「王維画訣図巻(おういがけつずかん)」は、治宝から書を賜った直後に、治宝へ献上されたものです。
このように、紀伊藩内における高い評価が、介石の最晩年における旺盛な絵画制作を支えていったといえるでしょう。(学芸員 安永拓世)
→特別展 野呂介石
→和歌山県立博物館ウェブサイト