和歌山城ができるまでの和歌山の町は?
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(湊<町人町>から三の丸周辺) (内町<町人町>から三の丸周辺)
(いずれも、和歌山城下町絵図<展示番号1>の部分)
和歌山城が建っている辺りは、平安時代(今から約1000年前)には「吹上浜」と呼ばれた砂浜で、
そこにポツンと岩山があるくらいだったといわれています。
つまり、人が住むような場所ではなかったようです。
そのころ、紀ノ川は今の流れとは違って、現在の和歌川から和歌浦方面に流れていました。
やがて、紀ノ川が今の流れになると、のちに和歌山城が造られる辺りは、
あまり洪水が起こらないようになり、人も住むようになりました。
和歌山城の西の湊(とくに、道場町)には浄土真宗の寺がいくつかありますが、
1500年ごろに建てられたといわれています。
やがて、内町に鷺森別院が建てられます(上の絵図では「本願寺御坊」と書かれています)。
以前に弥勒寺山(秋葉山付近)にあったのが、
1563年以降に現在の場所に移ったといわれています。
この鷺森別院を中心に町ができあがりました。
このころ、本願寺は織田信長や豊臣秀吉と敵対していました。
このとき、本願寺の一員として最も勇敢に戦ったのが、
紀ノ川下流域を拠点にしていた「雑賀衆」(土豪)と呼ばれた人たちでした。
その強さは鉄砲にありました。
鉄砲が九州の種子島に伝わるのが1543年といわれていますが、
堺や雑賀・根来の人たちは、いち早く鉄砲を手に入れたといわれています。
こうした雑賀衆も、1585年の秀吉による紀州攻めによって、壊滅的な打撃を受けました。
秀吉は、支配の拠点として和歌山城の造営を命じます。
和歌山城は「岡山」と呼ばれた岩山に建っていて、天守閣に登ると和歌山が一望できます。
新しい町を作って政治をするのには、ここが一番都合がよかった場所だったわけです。
現在開催中の夏休み子ども向け企画展「和歌山城と城下町に住む人々」が、
今日(18日)のテレビ和歌山18時から放送される「あっと!テレわか>NEWSスタイル」で紹介される予定です。
次回(8月25日)のテーマは、「和歌山の城下町はどのようにしてできあがったの?」を予定しています。
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山城と城下町に住む人々
→和歌山県立博物館のウェブサイト
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