和歌山の城下町はどのようにしてできあがったの?
(紀州和歌山大絵図<展示番号25>)
今回は、和歌山城を中心に作られた城下町について考えてみましょう。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、浅野氏が入国すると、本格的な町が作られます。
最初は和歌川から西側に町が作られました。
徳川氏が入国してからは、和歌川の東側へ北新町・新町が作られて、城下町が拡大していきます。
城下町は武士の住む武家屋敷町(白色で、名前が記されているところ)と
町人(商人・職人)の住む町人町(柿色のところ)が厳重に分けられ、
武家屋敷地に町人が住むことは許されませんでした。
しかし、武士が町人町に住むのは許されたようです。
和歌山城を中心に、その周りに上級武士の屋敷町、城の正面(大手)に商人の町、
その背後に職人町、城下の周りに下級武士の屋敷町、城の背後に寺町が配置されました。
寺が配置された北東の方向は「鬼門」と呼ばれ、神仏を祭って、災難を避けようとした場所です。
現在の「元寺町」に当たります。
やがて、徳川氏の時代になると、現在の寺町の場所に寺は移転させられました。
イスパニア(スペイン)から1606年(慶長11年)に来日した、
フランシスコ会の神父ムニュスという人は、
和歌山について、「この国の中心であり、この領主の居城のある和歌山は、非常に美しく、
2万近くの住民がいて、家屋は美しい」と記しています。
和歌山城や城下町の歴史を、もっと詳しく知りたい方は、
『城下町和歌山百話』(和歌山市、昭和60年)
『和歌山市史』第2巻(和歌山市、平成元年)
『近世都市和歌山の研究』(三尾功、思文閣出版、平成6年)、などをご覧ください。
次回(9月1日)のテーマは、「和歌山城のまわりに、なぜ堀(ほり)があるの?」を予定しています。
8/27(土) 和歌山放送ラジオ「定期便 教育の窓」(8時45分~9時)で、
現在開催中の展覧会が紹介される予定です。
(主任学芸員 前田正明)