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コラム 高山寺の文化財(1) 聖徳太子孝養立像と弘法大師坐像

高山寺聖徳太子 高山寺弘法大師 画像クリックで拡大します。
左:聖徳太子孝養立像(県指定文化財) 右:弘法大師坐像


聖徳太子孝養立像と弘法大師坐像?高山寺創建にまつわる謎?


 田辺市稲成町の会津川右岸の丘陵上に位置する高山寺は、真言宗御室派の寺院である。本尊は阿弥陀如来であるが、多宝塔に安置される聖徳太子孝養立像(県指定文化財)と、大師堂(御影堂)に安置される弘法大師坐像が、ともに古くから篤い信仰を集め、非常に大きな存在感を有している。
 高山寺の歴史は、近世以前についていえば、多くの謎に包まれている。寺伝では、高山寺は聖徳太子による開基であり、またのちに弘法大師が熊野へ赴いた帰りに、この地で稲荷明神と出会い、また御影淵に映った自らの姿を彫刻にしてあらわしたという創建に関わる伝承がある。この伝承は、現在のところ他の資料によって裏付けることは困難である。
 一方、江戸時代の中ごろに編集された高山寺の歴史書「奕世年譜(えきせいねんぷ)」によれば、天正13(1585)年の「秀吉の紀州攻め」の際に境内が軍陣となり、伽藍が荒廃して、大半の記録や宝物が失われたという。そしてその直後に、中興の住職・空増によって、岩屋山観音堂に難を逃れて遷されていた聖徳太子と弘法大師の二つの像を戻して、伽藍の再興が始まったとされる。なお弘法大師の像は、もとは丘陵のふもとにあった別の堂に置かれていたという記述もみられる。こうしてみると、聖徳太子の開基・弘法大師像の自作という伝承は、江戸時代初めの状況をもとに合理的に叙述していることにはなるが、それ以前については必ずしも十分に納得のゆく説明にはなっていない。
 このたびの特別展に関わる調査では、この二つの彫刻を念入りに調査させていただくことができた。その結果、彫刻の様式から導き出される年代として、両像とも鎌倉時代後期(今からおよそ700年前)の制作であると判断した。聖徳太子と弘法大師の彫刻について、県内に残された作品としてこの段階までさかのぼるものがほとんどないという貴重さに加え、これは高山寺の創建・発展を考える上で重要な材料になるものと思われる。しかし、「なぜ聖徳太子をまつったのか」という素朴な疑問を含め、依然としてなお解決すべき多くの謎が残されているのである。(学芸課長 竹中康彦)
特別展 田辺・高山寺の文化財
和歌山県立博物館ウェブサイト

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