現在開催されている企画展「根来寺の“内”と“外”」の関連行事として、2月11日(水・祝)、「中世の根来を歩く」という現地ツアーを開催しました。博物館として行う野外での企画としては久しぶりの行事で、果たしてお客さんが集まってくれるのか心配もしましたが、事前申し込みの方だけで43人、当日は合計で70人近い方が参加されて、冬の晴れた空のもと、気持ちよく歴史薫る根来の里を散策しました。
まずは、着任したばかりの伊東館長のご挨拶。館長は根来には何度か来たことがあるようですが、この日はお客さんと一緒に歩けるということで、とても楽しみにしていたとのこと。
不動堂にお参りした後、早速、本堂である大伝法堂の前へ。大伝法堂は、根来寺の本尊である大日如来坐像をはじめとする三尊像をお祀りする堂舎で、江戸時代後期の再建建造物です。秀吉による焼き討ちこそまぬかれましたが、その後、京都での寺院建設の材木とするため解体され、本尊ともども京都へと持って行かれてしまいました。しかし、京都での寺院建設は結局、中止となり、本尊は根来へ戻されたものの、堂舎の材木は港などに積み置かれたまま、橋などの材に転用されたと言われています。
大伝法堂の中に入って、根来寺文化研究所の中川委紀子主任研究員にお話をうかがいました。堂の中は外よりも寒かったですが、中川さんの話に一同聞き入りました。
続いて本日のクライマックス、非公開の大塔内陣の拝観です。内陣は撮影禁止とのことで、ここでは外での解説風景です。この日は本当にいいお天気でした。内陣は狭いので、2グループに分かれて、外観と歴史的な背景の説明を聞き、入れ替わりで、内陣の中でも中川さんよりお話をうかがいました。
大塔は、室町時代後期に着工された大規模な木造建造物で、資材の収集から数えると完成まで約70年を要した大事業でした。完成したのは天文16年(1547)で、根来寺が最も隆盛を極めた戦国時代です。国宝。
これは大師堂。南北朝時代の弘法大師坐像をまつる建物で、建物もその時代のものと考えられ、現在の境内に残る建物としては最古の建物です。重要文化財。
本坊や光明真言殿、行者堂などにあがらせていただいた後、円明寺へと向かいました。円明寺本堂は、焼き討ちの後、最初に復興された建物で、17世紀前半の建造物です(写真は拝殿)。言わずと知れた、覚鑁が高野山から下山して最初に根来の地で寺を建てた地で、もともとは豊福寺という修験系の寺があったといいます。覚鑁はこの地で、49才の生涯を閉じています。
三部権現という、覚鑁がこの地で円明寺をたてた際、その鎮守神として勧請した神をまつる社です。覚鑁は千余りの神を勧請したと言われていますが、神仏習合の姿を残す場としても貴重です。
根来寺の表玄関である大門です。堂々とした風格のある二重門で、江戸時代の伽藍復興の最後を飾って再建された門です。ちなみに中世には、南の前山の稜線上に、「南古大門」という大きな門が立っていましたが、焼き討ち後、豊臣秀長によって大和郡山に移築されたと言われています。
今回の現地ツアーの最後は、大門池の角にたつ十三仏の板碑です。天文2年(1533)の銘が今でもくっきりと読み取れ、南無阿弥陀仏の名号の周囲に十三仏を表す十三の梵字が彫り表されています。これが根来寺の西の結界(境界)と言われ、東の結界も菩提峠を南へ少し下った新池のほとりに現存しています。これにより、最盛期の根来寺の東西の境界が分かるのですが、今回は西の境界だけをご覧頂きました。
今回はお天気も良く暖かで、最後まで気持ちよくツアーを終えることができました。参加した皆さんもよくついてきて頂いて、満足していただけたのではないかと思います。ちょっと解説が長くなりすぎて、最後は予定の時間を少し超過しましたが、久しぶりの野外企画は無事終えることができました。参加された皆さん、本当にお疲れ様でした。それからご協力いただいた和歌山大学紀州経済史文化史研究所と根来寺の皆さんには厚く御礼申し上げます。どうもありがとうございました。(学芸員 高木徳郎)
→企画展「根来寺の“内“と”外“」
→和歌山県立博物館ウェブサイト