今日(16日)、2回目のミュージアム・トークとパネルでトークを行いました。
今日のインフォメーション
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13時30分からミュージアムトークを行いました。
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初公開の和歌浦・厳島図屏風の前で説明しているところ
少しミュージアムトークが延びましたが、そのあとパネルでトークを行いました。
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県立文書館の溝端さんが、パネルを見ながら、丁寧に説明してくれました。
最後に、初公開の和歌浦・厳島図屏風を紹介します。
和歌浦・厳島図屛風(わかのうら・いつくしまずびょうぶ)
展示番号8
6曲1双
紙本金地著色
各縦126.0㎝ 横262.0㎝
江戸時代前期
和歌山県立博物館蔵
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初公開の和歌の浦と厳島(宮島)を一双に描いた名所図屛風。画面は比較的濃い彩色で丁寧に描写されており、一部に金砂子を用いているものの、大半は金箔を貼った金雲を全体にたなびかせている。人物の衣服や器物の描写は細かく、その文様もかなり緻密(ちみつ)で、人物の風俗描写や全体の描写様式から、17世紀後半とされる。本図とよく似た構図のものとして和歌浦図屏風(堺市博物館蔵)がある。ただ、堺市博本は6曲1隻(和歌浦図のみ)で、建物の構成・人物の配置など、詳細な部分では異なるところも少なくない。以下では、和歌浦図に限って、詳しくみていきたい。
和歌浦図は、左側に紀三井寺・布引松(ぬのびきのまつ)、右側に淡島神社・吹上浜を描く。中央に描かれた社殿は、「わか大明神」の張紙があり、正面が入母屋の本殿、海上に立つ大鳥居など、天満宮を連想させる描写となっている。天満宮は、慶長11年(1606)に浅野幸長(あさのよしなが)によって再興され、楼門・回廊が新造されている。ただ、天満宮にはないはずの三重塔が社殿の横に描かれており、東照宮を連想させる建物の描写もみられる。元和5年(1619)紀伊国に入国した徳川頼宣(よりのぶ)は、元和7年天満宮の東隣に東照宮を造営し、その後東照宮境内の整備を行っている。
万葉の時代の和歌の浦の景観美を俯瞰(ふかん)するような絵手本の存在も指摘されている。本図に描かれた、向かって左に描かれる名草山(紀三井寺)の麓から右に延びる長い砂州に対して、右に描かれる天満宮の近辺の鳥居付近から左に延びる短い砂州は、そうした絵手本に基づいて描かれたものではないかとされている。
近世の名所図といわれる和歌浦図は、天満宮を中心とした伝統的な構図から東照宮を中心とした実景的な構図に移行する傾向にある(社殿の前に立つ鳥居が浅瀬に建つか、陸上に建つかは、その社殿が天満宮であるか、東照宮であるかを考える1つのメルクマークになる)。しかし、実際は伝統的な構図の要素と実景的な構図の要素が混在しながら、形式化が進んでいったようである。今回紹介した和歌浦図は前者であるが、後者の色彩の強い和歌浦図(参考の和歌浦図)も残されている。いずれも架空の景観を描いたものともいえるが、それだけバリュエーションに富む和歌浦図が制作されていたともいえる。
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参考 和歌浦・厳島図屏風のうち和歌浦図 東照宮の要素が強い社殿を描く
企画展「和歌の浦の風景」は来年1月20日までです。
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山県立博物館ウェブサイト