引き続き、夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。
Ⅳ 幕末・維新期における梧陵と海荘
梧陵は江戸との往復を通じて、知見を広めるとともに多くの知識人たちとの交流を深めました。佐久間象山や三宅艮斎から西洋事情を学び、勝海舟や関寛斎へ資金支援をおこなっています。一方、広村では地震津波の被災者救済や広村堤防の築造など社会事業もおこなっています。こうした梧陵の活動は、本業の醤油業経営の拡大を弱める要因にもなりました。
梧陵は、広村村民のための教育機関である耐久社を開設します。さらに、紀伊藩の藩政改革に関与し、誕生した和歌山県の要職にもつきました。ここでは、幕末・維新期における梧陵の動向を、菊地海荘(一七九九~一八八一)との関係にも注目しながら、みていきいます。
銚子にいた梧陵が広村の叔父に出した年賀状
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30 濱口梧陵書状 籠谷叔父宛 一通 天保三~五年(一八三二~三四) 湯浅町教育委員会
梧陵は、文政三年(一八二〇)広村にある濱口家の分家に生まれました。一二歳で儀兵衛家の養子になり、家業の醤油醸造業を継ぐため、銚子に向かいました。銚子では「広屋」(広村出身という意味)の屋号をもち、同五年九月に元服して「儀太郎」を名乗るまで、「儀太」を名乗っていました。この書状は、銚子にいた広屋儀太(梧陵)が、広村に住む籠谷叔父(実母しんの弟)にあてた年始の挨拶状です。この時、儀太は一三~一五歳でした。
耐久社の入り口に掲げられた名称板
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31 扁額「耐久社」 一面 慶応二年(一八六六) 広川町
嘉永五年(一八五二)、梧陵は濱口東江・岩崎明岳らと、広村の田町に稽古場を開設しました。当初は村民やその子弟の武道鍛錬を目的としていましたが、やがて学問も重視するようになります。嘉永七年(一八五四)の大津波で被災し、一時閉鎖されましたが、安政二年(一八五五)再開し、慶応二年に安楽寺の東隣に移転しました。その際、永続を誓って、「耐久社」と命名しました。この額は、菊池海荘が揮毫し、安楽寺住職の濱口松塘が板に刻みました。
ペリー率いる黒船が浦賀に現れた様子を描く
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32 ペリー来航図写 一幅 嘉永六年(一八五三)以降 和歌山市立博物館
嘉永六年六月三日ペリー率いる艦船(黒船)四隻が、浦賀沖(神奈川県横須賀市)に現れ、江戸幕府は四藩に防備を命じました。ペリーは約四百人の兵士を率いて、九日久里浜に上陸し、アメリカ大統領の親書を浦賀奉行に手渡しました。その様子が描かれています。一方、四月二〇日養父の保平が亡くなったため広村に戻っていた梧陵は、銚子に戻る途中に滞在していた江戸でこの事件を知り、外国の脅威を実感することになります。
ロシア船ディアナ号への紀伊藩の対応を記す
(巻七) (巻八) (画像はクリックで拡大します)
33 異船記 七・八 二冊 安政三年(一八五六) 和歌山県立図書館
嘉永七年(一八五四)九月一五日日高沖にロシア船ディアナ号が出現し、紀伊水道を北上して、一八日大坂に到着しました。一〇月二日大坂を出発し、四日加太沖に停泊し、その後下田(静岡県下田市)に向かいました。この間、紀伊藩では領内の海岸防備を村役人や地士に命じ、濱口儀兵衛(梧陵)も固場に詰めています(巻七)。お抱え絵師の野際蔡真は、沿岸各所に設けられた砲台、ディアナ号とバッテイラ(短艇)二艘などを描いています(巻八)。
いろは順に並べた紀伊藩士の名簿
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34 和歌山御家中御目見以上以下伊呂波寄惣姓名帳 一冊 明治二三年(一八九〇) 和歌山県立文書館
明治元年一一月、藩主徳川茂承の命で、改革派の津田出が藩政改革を開始します。その直後、梧陵は勘定奉行に抜擢され、翌二年一月に藩の要職である参政に命じられます。この資料には、明治二年ごろの禄高(藩からの給与)が記されており、濱口儀兵衛(梧陵)は切米四五石となっています。二月には学習館知局事兼務を命じられ、藩士の子弟教育機関である学習館の改革に取り組むことになります。
梧陵が鎧の背に指した小旗
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35 背旗「有田郡 濱口儀兵衛」 一旒 江戸時代(一九世紀) 稲むらの火の館
この背旗(鎧の背に指した小旗)は、下地に朱を塗った紙に、金箔を貼った「金の丸」を縫い付け、「有田郡 濱口儀兵衛」の黒い文字を貼り付けています。藩の規定では、背旗の使用は慶応三年(一八六七)正月まで、諸士御目見以上(一般の家臣)は紺地に金の丸を使い、名前は金箔ですり込むこととされています。安政三年(一八五六)梧陵は救済事業の功労で独礼格を与えられたとされており、この背旗はそれ以降に使用されていた可能性があります。
栖原村出身の菊池海荘の肖像画
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36 菊地海荘像 一幅 江戸時代(一九世紀) 和歌山市立博物館
菊池海荘(一七九九~一八八一)の肖像画です。羽織袴姿で羽織の房は花結びにし、右手に扇子を持ち、右脇に刀を置いています。海荘は江戸に出店をもつ砂糖問屋の二代目当主で、幼くして儒学を学び、前半生は漢詩人として活躍し、後半は海防論者として有田地方で活躍しました。外敵から農民の生活を守るために、農兵を組織する必要を説きました。文久三年(一八六三)に勝海舟が海防警備のため紀州を訪れた時、梧陵とともに面会しています。
幕末の湯浅村や広村を描いたスケッチ画
37 世情手控え図 四枚 江戸~明治時代(一九世紀) 個人
すき返したような薄墨紙に、湯浅村・広村周辺の幕末の世情が描かれています。①は大だこを担ぎ、万祝(大漁祝い)を着た人物が二人立っています。地震の前日や当日に魚類やタコに異常な行動が見られるともいわれています。②・③は安政三年(一八五六)に建立された深専寺「大地震津波心得の碑」の制作風景です。④は海側から広村を望み、松が茂る広村堤防(安政五年完成)が描かれています。「孫」の署名から、筆者は菊地海荘ともいわれています。
深専寺周辺の様子を描いた図
(深専寺) (「大地震津波心得の記」碑)
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38 紀伊国名所図会 後編巻之四 一冊 嘉永四年(一八五一) 和歌山県立博物館
紀伊国の寺社・名所・旧跡の由来などを記した紀伊国名所図会の一場面です。多くの人びとが行き交う大通りは江戸時代の熊野街道で、深専寺の門前(総門)に向かう辻には、天保九年(一八三八)五月に建てられた道標がみえます。北面に「すぐ熊野道」、南面に「右いせかうや道」、東面に「きみゐてら」と刻まれています。総門の左側に「大地震津波心得の記」碑が建立されるのは、嘉永七年の大津波から二年後の安政三年(一八五六)一一月のことです。
有田郡民政副知局事の菊池海荘が記した記録
② ①
④ ③ (一)
⑥ ⑤
⑧ ⑦
⑨ (二) (画像はクリックで拡大します)
39 民政局用事留 一・二 二冊 明治二年(一八六九) 湯浅町
明治二年二月、有田郡民政副知局事を命じられた菊地海荘(一七九九~一八八一)が書き留めた記録です。一(①~④)には、梧陵に宛てた手紙が写され、鈴木知局事が判事試補の恣意的な人事をしていると指摘しています(梧陵は八月に知局事になります)。二(⑤~⑨)には、学習館知事の梧陵が五月に定めた学習館学則が記されています。梧陵は、学習館・国学所・蘭学所などを整理統合するとともに、洋学所を設け、門閥を廃して入学の基準を大幅に緩和するなどの改革を行いました。
広村出身の渋谷伝八が書いた広村の歴史
(広村堤防) (画像はクリックで拡大します)
40 夏之夜がたり 一冊 明治四二年(一九〇九) 稲むらの火の館
広村出身の実業家であった渋谷伝八(一八四一ヵ~一九一〇)が書き記しました。伝八の父吉兵衛が梧陵と懇意であったこともあり、梧陵の事績も記されています。例えば、嘉永七年(一八五四)の大地震津波後に着工された広村堤防のこと、広村と湯浅村との境を流れる広川に架かる広橋の架け替え工事を梧陵が自費でおこなったことなどです。また、明治二年に有田郡民政知局事に命じられた梧陵が、有田地域の産業振興に尽力したことも記されています。
蘭・菊・梅・竹の四つの植物を染付で描いた鉢
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41 染付四君子図菓子 一口 明治二~三年(一八六九~七〇) 和歌山県立博物館
蘭・菊・梅・竹は、春夏秋冬の季節を代表する草木として、「四君子」として称えられました。筆の運びが滑らかですばやく、腕の立つ絵付師によるものとみられます。底裏にある「南紀製之」の銘は、男山陶器場が藩の開物局の傘下に入った明治二年から三年まで使用されたもので、この時期京都から陶工を雇って陶器の生産をおこなっていました。明治三年一月二四日、湯浅の有田郡民政局で執務していた梧陵は、男山の陶器場を訪れています。
岩場を駆け上がる獅子を染付で描いた香炉
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42 染付獅子図香炉 光川亭仙馬作 一口 明治四年(一八七一) 和歌山県立博物館
底に三つの脚が付いています。側面にある「仙馬」の染付銘から、光川(印南町)出身の光川亭仙馬(土屋政吉、一八一六~九三)の作とわかります。明治三年八月開物局の廃止により、男山陶器場の経営は崎山利兵衛の手にもどりました。翌年二月小山陶器所(三重県紀北町)に移っていた仙馬も男山に戻っています。側面などの文字情報から、この香炉は、正月二一日に二一歳で亡くなった息子安之祐の冥福を祈って、仙馬が制作したものとわかります。
一八九九年ごろの広八幡神社の境内を描く
(紀伊国名所図会) (画像はクリックで拡大します)
43 和歌山県名所図録 一冊 明治三二年(一八九九) 興山寺
和歌山県にある名所とされる景観(明治時代)を描き、解説文をつけています。収録されている名所は全部で一一一か所あり、ほとんどが社寺です。展示の場面は、広八幡神社の境内です。江戸時代は七か村の産土神で、江戸時代の景観は、紀伊国名所図会に描かれています。このなかで、多宝塔・鐘楼・西門・神楽所・観音堂などは、明治の神仏分離で取り払われました。一方、明治二六年に建立された濱口梧陵翁碑(梧陵濱口君碑)が見えます。
勝海舟が梧陵の成し遂げた業績を記す
(濱口梧陵銅像) (画像はクリックで拡大します)
44 拓本 梧陵濱口君碑 一枚 現代 個人
梧陵が亡くなってから八年後の明治二六年(一八九三)四月に、広村堤防が望める広八幡神社の境内の一角に、梧陵濱口君碑が建てられました。これは、その拓本(凹凸のある面に紙を被せて密着させ、上からタンポに含ませた墨を打ったもの)です。梧陵の孫である勤太(梧圃・九代儀兵衛)が、梧陵と親交の深かった勝海舟に依頼し、文面が作成されました。書は貴族院議員で、「明治の三筆」と呼ばれた書家の巌谷一六、刻字は宮亀年が担当しました。
梧陵生誕百年を記念して作成された伝記
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45 濱口梧陵伝 杉村広太郎著 一冊 大正九年(一九二〇) 和歌山県立図書館
杉村広太郎(楚人冠、一八七二~一九四五)が、梧陵生誕百年にあたる大正九年、旧和歌山県会議事堂前に濱口梧陵銅像が建設されるに際して、濱口梧陵銅像建設委員会から依頼を受けて執筆したものです。杉村は現在の和歌山市に生まれ、上京して新聞記者となり、南方熊楠の活動なども紙面で取りあげていました。執筆にあたり、濱口家に残されていた梧陵関係の書翰の調査・解読、現地での聞き取り・写真撮影などは、北澤秀一がおこなっています。
(主任学芸員 前田正明)
→濱口梧陵
→和歌山県立博物館ウェブサイト