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宝鏡鈔(館蔵品841)

宝鏡鈔(館蔵品841)
0841宝鏡抄(巻首) (巻首)  0841宝鏡抄(巻末) (巻末)
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【奥書】
(本奥書)「宝性院法印宥快記之」
(書写奥書)
于時応永三十二年十二月廿八日夜半於谷上正智院書写[   ]
                 沙門快嚴
                 乗識房廿八才
旹明応七〈戊午〉四月廿四日於讃洲仲郡尾背寺西坊
自金勝院彼御本賜書写畢 金剛資照鏡〈五七〉
又云同年七月六日尾背寺上之坊ニテ借御本給如本
書写畢、修求聞持谷也、備中国水田之侍従宥嚴〈五七〉
 於多度郡善通寺勧学院書写畢
 明応七〈戊午〉八月廿四日 大和国添下郡上鳥見長弓寺[  ]〈長/[  ]〉
(裏見返)
如此雖移不校合間、謬多可有之者
後見能々可有糺明也
 〔ア〕〔ビ〕〔ラ〕〔ウン〕〔ケン〕□ 〔バ〕〔ザラ〕 宥海
                  「十六箱内」
※〔 〕は種子(梵字)
【刊本等】
・『大正新脩大蔵経』巻77
・『立川流聖教類纂』2(立体社、1976年)
 ※底本はいずれも明暦2年(1656)の版本。
【内容】
宝鏡抄は、高野山宝性院の宥快の代表的著作です。
著者の宥会は、藤原実光の息で、康安元年(1361)17歳の時に出家、後に高野山の宝性院に住し、
信弘のもとで入壇灌頂を受けました。応安7年(1374)宝性院門主となり、翌永和元年(1375)に宝鏡鈔を著しました。
明徳3年(1392)には後円融上皇のために鎮座法を修するなど、たびたび詔により宮中で秘法を修していたようです。
応永22年(1416)、72歳で入寂したと伝えられています。
宥快は、無量寿院の長覚と並び、南北朝~室町時代前期の高野山を代表する学僧で、
二人の教学振興は「応永の大成」とも呼ばれました。
宝鏡抄では、日本への密教伝来以後、真言宗の諸流を記し、
次に平安時代後期の仁寛による立川流の創始とその論理、
さらに後醍醐天皇に仕えた文観が立川流の拡大に影響を持ったと批判し、
文観の罷免を求めた建武2年(1335)の金剛峯寺衆徒奏状を引用しています。
この資料には奥書が記され、書写の過程がわかります。
①応永32年(1425)、高野山正智院で乗識房快嚴が書写、
②明応7年(1498)4月、照鏡が讃岐尾背寺(香川県まんのう町)西坊で(正智院で書写した)本を金勝院より借りて書写
③同年7月、備中国水田(岡山県真庭市)之侍従宥嚴が、讃岐尾背寺上之坊で(西坊で書写した)本を借りて書写
④同年8月、大和国上鳥見長弓寺(奈良県生駒市)の僧某が善通寺勧学院で(讃岐尾背寺上之坊で書写した本を)書写
というように、写し継がれてきたものです。
特に讃岐尾背寺は、長宗我部氏によって焼き討ちにあい、
現在寺院は残っていないようです(平凡社 歴史地名大系「香川県の地名」)。
尾背寺に西坊・上之坊などがあったことがわかる点でも、この資料は重要です。
なお、巻首には「洛西鳴滝/常楽寺蔵」とう朱印があり、
0841宝鏡抄(朱印)
仁和寺別院の鳴滝山常楽院(京都市)旧蔵であることもわかります。
(当館学芸員 坂本亮太)

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