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弘法大師御手印縁起写(館蔵品270)

弘法大師御手印縁起写(館蔵品270)
弘法大師御手印縁起写で、金剛峯寺根本縁起とも呼びます。
この資料は文化遺産オンラインでも紹介しています。
弘法大師御手印縁起写(文化遺産オンライン)
※画像はクリックで拡大します。
270御手印縁起写(巻首) (巻首)
270御手印縁起写(巻末)4 270御手印縁起写(巻末)3 270御手印縁起写(巻末)2 270御手印縁起写(巻末)1 (巻末絵図)
【翻刻等】
・弘法大師著作研究会編『定本 弘法大師全集』第七巻(高野山大学密教文化研究所、1992年)
【解説・写真等】
・『きのくにの歴史と文化―和歌山県立博物館館蔵品選集―』(和歌山県立博物館、2004年)
・『京都・安楽寿院と紀州・あらかわ』(和歌山県立博物館、2010年)
・『高野山麓 祈りのかたち』(和歌山県立博物館、2012年)
・『弘法大師と高野参詣』(和歌山県立博物館、2015年)
【内容】
金剛峯寺根本縁起(弘法大師御手印縁起)の写です。
この資料には、金剛峯寺根本縁起と同様に、
 ①弘仁7年(816)7月8日付の太政官符、
 ②同年7月28日付の紀伊国符、
 ③高野山四至注文、
 ④承和元年(834)9月15日付の大師御記文、
 ⑤承和3年7月27日付の紀伊国判、
 ⑥高野山絵図、
の基本となる六つの史料のほか、
⑤と⑥の間に「遺告真然大徳等」が載せられているところに大きな特徴があります。
また⑥高野山絵図には文字注記がなく、絵も非常に簡略な点も特徴的です。
その点、館蔵品1030の金剛峯寺根本縁起写(弘法大師御手印縁起写)とは、内容・構成が少し異なります。
さらに本資料には⑥の前に、「旹天正十七〈己/丑〉四月廿一日修復之畢/木食応興山上人応其判」と、
天正17年(1589)4月21日に木食応其が修理した旨の銘のある点が注目されます。
天正17年に応其は御手印縁起に修補の奥書をし、金剛峯寺惣分方に伝え、
元禄8年(1695)幕府の命により、学侶・行人のものと合わせて御影堂に納めたといいます(『紀伊続風土記』)。
この資料は、その写本の一つと思われます。
木食応其は、天正13年(1585)、豊臣秀吉による紀州攻めの際に、
高野山を戦火から救った僧として知られています。
応其は、御手印縁起を携えて根来寺(岩出市)へ行き、灰燼(黒灰場)の中に縁起を投じて、
高野山金剛峯寺(高野町)が秀吉に従うことを説明し、何とか破却を免れたといいます(『紀伊続風土記』)。
このように、応其は御手印縁起を用いて高野山金剛峯寺の旧領の存続を求めていました。
御手印縁起(旧領)の論理は脈々と生き続けており、近世高野山金剛峯寺の寺領確立のうえにおいても、
弘法大師御手印縁起(金剛峯根本縁起)は大きな位置を占めていました。
館蔵品1030の金剛峯寺根本縁起写とあわせ、
様々に写本が作成されている様子、また各種写本を比べてみていただけたらと思います。
(当館学芸員 坂本亮太)

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