紀武光畠地宛行状(館蔵品992)
【釈文】
武光(花押)
被充下畠之事
合七段者〈在所者神宮有真郷/之内一識進退之畠/也〉
右之畠者、国造雖為知行
神前郷之善左衛門尉依有
奉公之子細、永代被下処也、
然上者、向後向公方弥可
抽忠節者也、仍御書下如件、
御使村垣因幡守
享禄四年〈辛卯〉十二月吉日 調富
善左衛門尉
※『和歌山市史』第4巻(戦国時代(一)-145号)に、神前文書として掲載されています。
当館が所蔵している神前文書はこの1点のみ。
【内容】
享禄4年(1531)12月、紀武光が神前郷(和歌山市神前)の善左衛門に畠地7段を宛て行った文書です。
日前・国懸神宮領の有真郷(和歌山市鳴神)の畠七段(のすべての権利)について、
これまでは紀伊国造が知行していたところ、
神前郷の善左衛門に奉公の子細があるということで宛て行い、
今後は「公方」(紀国造か)に忠節を抽んずべきよう、指示したものです。
使者の村垣因幡守調冨が日下に署名し、武光が袖に花押を据えて発給するという形式になっています。
宛行状として袖に花押を記すなど、尊大な形式の文書ではありますが、
ほかの紀国造や日前宮に関わる文書では、宛行状や売券などに袖判を据える事例があり、
紀国造(日前宮)に関わる文書の特徴かもしれません。
なお、袖に花押を据える武光は、「国造侍従紀武光」として、
享禄5年に補任状を発給していることが確認できます。
紀武光が国造ではなく、国造「侍従」であることには注意が必要です
(紀武光は、紀国造の系譜には名前が見えません)。
時期的にみると、紀伊国造65代俊調、66代光雄(同母兄弟)の時期にあたります。
この二代の紀国造は、蹴鞠・和歌の名門である飛鳥井雅親との間に生まれた子で、
64代紀国造俊連は、飛鳥井雅親を紀伊に招き、歌・鞠の伝授を受けるなど、
京都の飛鳥井家との関係が非常に深まった時期にあたります。
また、飛鳥井雅親が紀伊に滞在した時に宿所としたのが、
本文書に御使として見える「村垣左衛門俊当之宅」です。
国造「侍従」による(袖判)宛行状発給の事情は現状あまりよくわかりませんが、
紀国造家の上記のような動向とも関わりがあるのかもしれません。
いずれにせよ、戦国時代の紀国造・日前宮を考えるうえで重要な文書として、
改めて注目してみる必要があるのではないでしょうか。
(当館学芸員 坂本亮太)