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顕如書状写・教如書状写(館蔵品565)

顕如書状写・教如書状写(館蔵品565)
館蔵品の教如像とまとまって伝えられた、顕如と教如の書状の写です。
教如像については、常設展で展示したり、他館へ貸し出したりと紹介することはあったのですが、
2通の書状についてはこれまであまり取り上げられることがありませんでした。
教如像については、文化遺産オンラインで画像と解説がご覧いただけます。
教如像
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顕如書状03 顕如書状02 顕如書状写01
(顕如書状写)  ※3分割しています。 画像はクリックで拡大します。
【釈文】
態染筆候、仍信長公与」和平之儀、為 禁裏被仰出」互之旨趣、種々及其沙汰」候キ、彼憤大坂退出之儀ニ相」極候間、此段新門主令直談候、」其後 禁裏へ進上之墨付ニも」被加判形候、此和平之儀者、大」坂幷出城所々、其外兵庫・尼崎」之拘様、兵粮・玉薬以下、此已」来之儀、不及了簡候、中国」衆之儀、岩屋・兵庫・尼崎引」退帰国候、今ハ宇喜多別心」之条、海陸之行不可相叶由候、」たとへハ当年中之儀者」可相拘歟、乍去敵多人数」取詰、長陣以後者、扱之」儀も不可成候、然時ハ有岡・三」木同前ニ可成行事眼前候、」忽 開山尊像をハはしめ」悉相果候ハヽ、可為仏流段絶」事歎入計候、就其、如思案」叡慮へ御請申候、如此相済候」以後、新門主不慮之企、併」いたつら者のいひなしニ」同心せられ、剰恣之訴訟」中々過法候、将又予令隠」居云々、世務等更無其儀候、」仏法相続之儀、猶以不及」其沙汰候処、諸国門下へ申」ふるゝ趣、言語道断虚言共ニ候、」所詮 開山影像守申、」去十日至紀州雑賀下向候間、」此以来諸国門徒之輩、」遠近ニよらす難路をしの」きても、 開山聖人御座」所へ参詣をいたさるへき事、可為報謝候、これに付ても」皆々仏法に心を留られ」候へく候、人間ハ老少不定」の界、出るいきは入を」またさるならひなれは、」急々他力の可有安心」決定候、されハ信をとると」いふも、なにわつらひもなく」雑行雑修をすてゝ」弥陀如来後生たすけ」給へと憑申人々ハ、必」極楽に往生すへき事」疑あるましく候、このうれ」しさにハ念仏申され」候ハんする事、肝要にて候、」此旨能々たしなまれ」候へく候、猶刑部卿法眼」少進法橋可申也、穴賢々々、」
 卯月十五日 顕如(花押影)
  江州北郡
    坊主衆中へ
    門徒衆中へ
 江州北郡
   坊主衆中へ  顕如
   門徒衆中へ
教如書状
(教如書状写) ※クリックで画像は拡大します。
【釈文】
急度取向候、当寺」信長一和之儀、すでに」相調候、さ候へハ、御方表」裏眼前候、就其予」当寺可相拘おもひ」たち候、然者、聖人之」号門弟輩者、此度尽」粉骨を馳走候はゝ、仏」法再興 聖人江可」為報謝候、さてハ安心」決定候て、称名念仏無」油断心にかけられべく候」猶各たのミ入計候、穴賢、」
 卯月三日 教如(花押影)
  江州
   北三郡中
 江州
  北三郡中 教如
2通ともに天正8年(1580)の大坂退出時にかかわり、
近江北三郡の門徒中に宛てた顕如と教如の書状の写しです。
本願寺の顕如は、元亀元年(1570)から11年間におよび、諸国の門徒に檄を飛ばし、
各地の大名と結んで織田信長と戦っていました。
顕如は織田信長と和睦後、紀州に退去しましたが(本文中にも「紀州雑賀下向」とあります)、
長氏の教如は徹底抗戦をとなえ、大坂にとどまり、さらに5ヶ月間籠城を続けました。
この時の動向については、近年、岡村喜史さんが論文を書かれています。
(岡村喜史「大坂退出についての教如の動向」『顕如』宮帯出版社、2016)
顕如書状については、
・4月15日付け 越中国坊主衆中・門徒衆中宛て(勝興寺所蔵文書、『和歌山市史』第四巻 戦国時代(二)437号)、
・4月15日付け 能州坊主衆中・門徒衆中宛て(法融寺所蔵文書、『大系真宗史料』文書記録編4 宗主消息)
・4月23日付け 堺惣門徒中宛て
・7月28日付け 奈良惣門徒中宛て(西本願寺所蔵文書、『大系真宗史料』文書記録編4 宗主消息)
などが似た文言の本文となっています。
写真については、『きのくにの歩み―人々の生活と文化―』(常設展図録)にも掲載しています。
また、教如書状については、
・4月21日付け 甲州坊主衆・門徒中宛て(超願寺所蔵文書、『和歌山市史』第四巻 戦国時代(二)441号)
がほぼ同文で、日付と宛先が異なります。
そのため、内容的に全くの未紹介文書というわけではありませんが、
これまであまり活用されたことがない文書と言うことで、ご紹介しておきます。
(当館学芸員 坂本亮太)

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