高野山記(館蔵品900)
(巻首) (巻末)
(巻末紙背) ※文字読みやすくするためコントラスト・色調の調整をしています。
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【釈文】
・『続群書類従』第28輯上
・阿部泰郎・山崎誠編『中世高野山縁起集 真福寺善本叢刊9』(臨川書店、1999年)
※ただし文言等にはそれぞれ若干の異同があります。
【写真・解説等】
・『弘法大師と高野参詣』(和歌山県立博物館、2015年)
【奥書等】
(奥書)「天文第六弥生日/高野山国城院九品堂常住」
(巻末紙背墨書)「興山寺現住院主件箇古記点蒙請于予筆貧道不才而不能考/兼魯焉馬之混淆雖固辞再三所望不能謝課虚点之/誠穢披覧之眼光者也/于時延宝第三乙卯稔赤帝首月天中天降誕之日好遯緇即恵空点」
【内容】
「高野山記」は、高野山に関する宗教的な意義・解釈などに関わる言説をまとめた書です。
大須観音宝生院や正智院にも写本が伝わっています(字句等は若干異なります)。
前半では高野山の霊地・聖地としての由縁や参詣の利益を説き、
後半では念仏の利益、名号の意義を明らかにしています。
特に「六字名号、五字真言、得益、是可同」とあるように、念仏と真言の一味を主張し、
高野山が阿弥陀の浄土であることを説いています。
高野山を拠点にした念仏聖(高野聖)が依拠した縁起(テキスト)とすることができます。
大須観音宝生院所蔵の写本によると、作者は「生阿」とありますが、本書には記載されていません。
この資料に奥書があり、天文6年(1537)に書写されたもので、
「国城院九品堂」の什物であったことが記載されています。
国城院は一遍上人開基と伝える子院です。
九品浄土曼荼羅(当麻曼荼羅)を掛ける九品堂があったのでしょう。
作者が「生阿」とする写本もあるように、阿弥号を持つ時宗聖による縁起と考えられます。
高野山では様々な集団が、それぞれの依拠する縁起を作成し所持していたことを物語っています。
なお巻末紙背の墨書によると、
延宝3年(1675)に興山寺現住の依頼を受けて恵空が点を加えたものであることがわかります。
(当館学芸員 坂本亮太)