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1回目のミュージアムトークを行いました

今日(8日)、1回目のミュージアムトークを行いました。16人の参加がありました。
トークはこんな感じです。
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今回の企画展「紀伊徳川家の家臣たち」では、
これまで和歌山県立博物館が行ってきた展覧会を通じて明らかになった紀州東照宮に奉納された紀伊徳川家ゆかりの資料や家臣の子孫の方から寄せられた情報で所在が明らかになった家臣伝来の資料などを通じて、紀伊徳川家や家臣たちの実像に迫ります。
とくに今回は、徳川家康以来の家臣である渥美家のご子孫のお宅に、渥美家伝来の資料が残されていることが確認できたことは大きな成果です。
今回の展示の概要を、何回かに分けてご紹介します。
1 初代藩主徳川頼宣と御付の家臣たち
 徳川家康(1542~1616)の10男である頼宣(よりのぶ、1602~71)は、慶長8年(1603)に2歳で水戸城主となり、8歳で駿府(すんぷ)城主となりました。この間、頼宣は父家康から、家康自身の家臣が分与されています。家康から付けられた家臣(御付衆 おつけしゅう)は、頼宣の家臣団の中核をなしていました。そのなかで最も有力な家臣は、のちに付家老(つけがろう)と呼ばれる安藤・水野・三浦・久野(くの)の4家で、石高・格式で群を抜いていました。
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徳川家康像(紀州東照宮蔵)
南龍公真影図(徳川頼宣像)          18安藤直次0011501
徳川頼宣像(館蔵)     安藤直次像(館蔵)
 元和2年(1616)家康が死去した際にも、尾張の義直(よしなお)、頼宣、水戸の頼房(よりふさ)の3人の子どもに対して、財産分与とともに、家臣の「人分け」も行われました。さらに、頼宣は紀伊藩主となって以降も、新たに家臣を召し抱えています。
 紀伊藩初代藩主となった頼宣は、元和7年(1621)に和歌浦に東照宮と別当寺である雲蓋院(うんがいいん)を建立しました。鳥居から東照宮の社殿に向かう参道の両側には、家臣たちによって寄進された石灯籠群が建っています。
紀伊国名所図会初編 巻之二DSC06498     000251-1.jpg
紀伊国名所図会(館蔵)        絵はがき(館蔵)
そのなかには、渥美源五郎正勝が奉納した石灯籠もあります。
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側面には、「元和七年夏四月吉辰/霊廟石灯籠一柱/紀伊州海士郡和歌浦渥美源五郎」と刻まれています。
14日(土)13時30分から、2回目のミュージアムトーク(展示解説)を行います。
(主任学芸員 前田正明)
→企画展「紀伊徳川家の家臣たち」
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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