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10代藩主徳川治宝と側近の家臣たち

 今日(28日)、4回目のミュージアムトークを行いました。33人の参加がありました。
 トークはこんな感じです。
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 寛政元年(1789)、徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1853)は19歳で紀伊藩10代藩主となりました。
 治宝は、中・下級家臣を抜擢(ばってき)し、従来の家老ら門閥(もんばつ)派を中心とした藩政の流れを変えようとするとともに、文雅(ぶんが)を楽しむ政策も行いました。
 一方で、治宝が藩主になったころの藩財政は非常に厳しく、その打開策の一つとして、将軍家との姻戚(いんせき)関係も深められていきました。
 文政6年(1823)治宝はこぶち騒動の責任をとって、藩主の座を11代将軍家斉(いえなり)の子である斉順(なりゆき、1801~46)に譲りましたが、隠居後も藩の実権は治宝が握っていました。
 治宝のもとには、家老の山中筑後守(ちくごのかみ)を筆頭に中流家臣の俊才が集ま、その中心に伊達宗広(だてむねひろ)や渥美源五郎らがいました。これに対し、11代藩主斎順のもとには、江戸詰の付家老である水野忠央(みずのただなか)や国元の山高石見守(いわみのかみ)らの重臣がついて、両者は対立していました。
 こうしたなか、ペリー来航の前年である嘉永5年(1852)山中筑後守と治宝が相次いで死去すると、治宝派の家臣に対する粛正が行われました。
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 左から由比家伝来の書「眉寿」(24)、その右は田安家旧蔵の書「眉寿」(23)、右端は渥美甚五郎家系譜のなかに記された、書「眉寿」を拝領したという記事です。こうしてみると、治宝はおめでたい、吉祥(きっしょう)を意味する書「眉寿」を、他の大名へ贈答品として送ったり、藩士へ下賜(かし)したりしていることがわかります。
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 書「眉寿」(24)は、由比家の七代由比利雄が、治宝から拝領したものです。
 由比家は遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)出身で、慶長13年(1608)家康から常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)に300石の知行が与えられ、その後頼宣に付けられ、頼宣の紀伊入国に同行しています。
 由比利雄は、文政13年(1830)に治宝の身のまわりの世話をする小納戸役(こなんどやく)を命じられています。こうした関係から、治宝からの拝領品があったようです。
書に記された「眉寿」とは、眉(まゆ)が長く白くなるほどの長寿という意味で、長寿を祝う言葉を意味するようになりました。興味深いのは、この書「眉寿」には、拝領の過程を記した付属文書が残されていることです。
 弘化4年(1847)4月12日に別邸である西浜御殿で、治宝側近の渥美源五郎・上野勘解由(かげゆ)を通じて、この書を拝領しました。19日には表装用の風帯・一文字・金襴裂を長屋内記(ながやないき)から、大崎(現在の海南市下津町)の白石を原料とし、葵紋が彫られた巻軸を鳥居源之丞を通じて拝領したと記されています。
 6月5日には表具ができあがり、御小座敷で治宝に披露し、綺麗な仕上がりを褒められたようです。
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 これは、陸奥宗光(むつむねみつ)の兄にあたる、伊達家六代の五郎宗興(だてむねおき)が、紀伊藩に提出した系譜書です。紀伊藩は、江戸時代の後半になると、家臣に対して、藩主である紀伊徳川家との関わりを中心にした自分の家の由緒を、代替わりごとに提出するよう命じました。
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 伊達家の元祖は陸奥国で、五代の藤二郎宗広(むねひろ、千広)は、熊野三山寄付金貸付方を総括するなど、一時藩財政を取り仕切る地位にありました。それを示すのが、上の熊野三山寄付金預かり証文(29)です。証文の最後に、伊達藤二郎(宗広、千広)が「承知」したことが記されています。藤二郎の子どもには、宗興と後に陸奥姓を名乗る陸奥宗光がいました。2人とも幕末の紀伊藩内部の政争のなかで脱藩(だっぱん)しています。
⑤伊東巳代治宛書簡(陸奥宗光筆) 巻末
 これは、農商務大臣を勤めていた陸奥宗光が、伊藤博文の腹心であった伊東巳代治(いとうみよじ)にあてた書簡(30)の最後の部分で、「宗光」の自署がみえます。
 陸奥は明治政府の官僚として歴史の表舞台に登場します。のちに、陸奥宗光は伊藤内閣で外務大臣を勤め、条約改正や日清戦争の講和条約締結など、外交面で活躍しました。
次回は、7月12日(土)13時30分から、最後のミュージアムトーク(展示解説)を行います。
(主任学芸員 前田正明)
→企画展「紀伊徳川家の家臣たち」
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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