鬼瓦 側銘「大くエチコせう ふちわらときよし」
現在の岩出市根来に位置する根来寺は、大治5(1130)年、覚鑁上人によって高野山上に建立された伝法院をその前身とする寺院で、13世紀後半の弘安年間、高野山金剛峯寺との対立抗争の末、高野山を退去し、現在の地に移転した。根来寺の呼称はこの頃に成立したものである。その後、根来寺は高野山と並んで紀伊国北部を代表する勢力へと発展したが、天正13(1585)年、天下統一を進める羽柴(豊臣)秀吉は、紀州攻めにより根来寺に壊滅的な打撃を与え、数百とも言われる塔頭寺院(院家)が建ち並ぶ境内は、現在残る大塔・大伝法堂・大師堂・大門などを除いて、ほとんどが焼亡してしまったと伝えられている。
根来寺の旧境内で行われている発掘調査では、実に様々なものが出土している。写真の鬼瓦は中でも目を引くもののうちのひとつだが、現在の広域農道と通称桃坂線と呼ばれる道の交差点付近にあった半地下式倉庫の遺構から出土したものである。側面に「大く エチコせう ふちわらときよし(大工越後尉藤原時吉)」との銘文が刻まれており、この瓦が「藤原時吉」を名乗る瓦大工を中心とする瓦大工集団によって制作されたことが分かる。実はこの「越後尉 藤原時吉」という瓦大工の名前は、現在の根来寺大塔に葺かれている永正12年(1515)の紀年銘のある瓦の中にもみえる名前で、しかもそこには藤原時吉の名前に並べて「天王寺弥二郎」という文字もみえることから、時吉もまた大坂・天王寺の瓦大工であることが推定できるのである。おそらくこの鬼瓦は、大塔の瓦の制作のために出張してきた天王寺の瓦大工集団が、依頼に応じて周辺の院家やその付属建物の屋根瓦の制作にもあたる中で制作された瓦のうちのひとつと考えられる。
この優れた出来映えの鬼瓦は、根来寺大塔という巨大な建造物の建立が、根来寺という寺院にとってはもちろん、造営に携わった様々な職人たちにとっても、大きな情熱とエネルギーを費やした一大事業であったことを今に伝えて余りある作品と言えよう。(学芸員高木徳郎)
→企画展 根来寺の今と昔
→和歌山県立博物館ウェブサイト