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コラム「野呂介石の生涯」3

今日は、コラム「野呂介石の生涯」の3回目です。
3 出仕(しゅっし)―藩士として父として
介石系譜書 (画像クリックで拡大します)
野呂九一郎系譜書(部分) 野呂介石筆 (和歌山県立文書館蔵)
 寛政5年(1793)の2月に、小田仲卿(おだちゅうきょう、生没年未詳)、今井元方(いまいげんぽう、?-1819)、桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう、1746-99)とともに熊野を遊歴した介石は、その直後の7月に紀伊藩士として取り立てられました。当時の紀伊藩主は10代の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771-1853)で、文化に造詣(ぞうけい)の深い藩主としてよく知られています。寛政元年(1789)に藩主となったばかりの治宝は、この時期に多くの文化人を新しく登用しているので、介石の登用もそうした政策の一環だったのかもしれません。また、介石よりも先に弟の正祥が弓術で召し出されて藩士になっていたことも、何らかの影響を与えたのではないでしょうか。
 こうして紀伊藩士となった介石ですが、お抱え絵師のような立場ではなかったため、絵を描くのが職務ではありませんでした。紀伊藩に提出された系譜書(けいふがき)などによると、銅山方(どうざんかた)や甘蔗方(かんしょかた)、砂糖方などにはげみ、その功績により徐々に地位をあげていったようです。また、同じく藩に提出した親類書(しんるいがき)からは、野呂家の親類構成もわかります。一方、藩士としての介石は、出仕した翌年の寛政6年(1794)に、新たな屋敷地を賜ったようで、その場所は、和歌山城のすぐ北西にある代官役所の隣の広い敷地でした。こうした資料からは、画家としてだけではない、介石の新たな側面が浮かび上がってくるといえるでしょう。(学芸員 安永拓世)
特別展 野呂介石
和歌山県立博物館ウェブサイト

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