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コラム「野呂介石の生涯」2

今日は、コラム「野呂介石の生涯」の2回目です。
2 開花―交流と遊歴
20091103131052_00001.jpg (画像クリックで拡大します)
和歌浦図巻(部分) 桑山玉洲筆 野呂介石題字 (個人蔵)
 池大雅(いけのたいが、1723-76)に師事して絵を学んだ介石ですが、安永5年(1776)に大雅が亡くなってからは、どうやら京や大坂を往来して、関西の文人たちと交流を重ねていたようです。
 その最も重要な人物の一人が、大坂で活躍していた文人の木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736-1802)だといえるでしょう。蒹葭堂は、大坂で酒造業を営む町人でしたが、詩文や絵画をたしなむ文人でもあり、また本草学(ほんぞうがく)や蘭学(らんがく)にも精通していました。とくに、書画や古器物、古典籍などを集める大収集家としても知られており、介石は蒹葭堂の家を何度も訪問したことがわかっています。
 また、介石と同じく和歌山の出身の画家で、介石よりも一歳年上だった桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう、1746-99)も、介石の画業を考えるうえで、見逃せない人物です。玉洲と介石は、蒹葭堂のために「和歌浦図巻(わかうらずかん)」を二人で合作していますし、また、介石の初期の画風には、玉洲の強い影響がうかがえます。さらに、寛政5年(1793)に、玉洲と介石は、紀伊藩の関係者とともに熊野を遊歴しており、その遊歴が、何らかの形で介石の紀伊藩士への取り立てに結びついたようです。
 介石は、こうした文人たちとの交流を通して、さまざまな影響を受けて、その画風や才能を開花させていったと思われます。(学芸員 安永拓世)
特別展 野呂介石
和歌山県立博物館ウェブサイト

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