今日は、コラム「野呂介石の生涯」の10回目です。
今回で、野呂介石展にかかわるコラムは最終回ですし、展覧会も今日が最終日です。
担当者としても、
明日になれば、これらの作品が全て箱に収められ
ご所蔵者の元へ帰って行くのかと思うと、
その感慨はひとしおです。
これだけの介石の作品が、一堂に集う機会も本当に少ないと思います。
ぜひ、展覧会の会場へもお越し下さい。
10 没後―その評価と門流(もんりゅう)
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野呂介石墓碑(のろかいせきぼひ) 護念寺
文政11年(1828)2月11日、介石は紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771-1852)から、紅裏(べにうら)の時服(じふく)を拝領しました。これが、何にかかわる褒美(ほうび)だったのかはよくわかりませんが、それから間もない3月14日に、介石は病気で亡くなっています。82歳の生涯でした。介石は、死の直前まで、「いい構図を思いついたのに絵を描けないのが残念だ」と述べたそうです。まさに、最後まで画家として生き抜いた人生だったといえるでしょう。介石の画家としての魂は、野呂家の菩提寺(ぼだいじ)である和歌山市内の護念寺(ごねんじ、ごうねんじ)に、今も静かに眠っています。
こうして長い画家生活を終えた介石ですが、その志や画風を受け継いだ弟子たちの活躍も見逃せません。介石が亡くなった翌年には、介石が生前に弟子たちへ語った内容をまとめた「介石画話(かいせきがわ)」が、すでに執筆されています。また、介石の評価は、亡くなってからも、依然として高まっていったようですし、野際白雪(のぎわはくせつ、1773-1849)や前田有竹(まえだゆうちく、生没年未詳)、少林(しょうりん、1772-1835)などの優れた弟子たちも、紀伊藩内や各地に活躍の場を広げていきました。
このような、弟子たちへの影響力の大きさも、介石が果たした大きな功績の一つでもあるのです。(学芸員 安永拓世)
→特別展 野呂介石
→和歌山県立博物館ウェブサイト