今回のコラムは、「長編コラム」として、いつもより少し長めに、作品の魅力についてご紹介しましょう。
取り上げる作品は、和歌山県指定文化財にも指定されている紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)所蔵の「東照宮縁起絵巻(とうしょうぐうえんぎえまき)」です。
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東照宮縁起絵巻 第2巻 関ヶ原の戦い部分 紀州東照宮蔵
(画面のほぼ中央で、黒い馬に乗っている人物が、徳川家康です)
元和2年(1616)に駿府(すんぷ、現在の静岡県)で亡くなった徳川家康(とくがわいえやす、1542?1616)は、久能山(くのうさん、現在の静岡県)に埋葬され、翌元和3年(1617)には日光山(にっこうさん、現在の栃木県)に改葬されました。また、同じ元和3年(1617)に、家康は朝廷から「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号を授けられ、神様とみなされたのです。その「東照大権現」すなわち家康をまつった神社が東照宮(とうしょうぐう)で、こうした東照宮は、久能山東照宮や日光東照宮をはじめ、全国各地の家康とゆかりの深い藩などで造営されました。
家康の死後3年を経た元和5年(1619)に駿府から和歌山へ入国し、紀伊藩初代藩主となった徳川頼宣(とくがわよりのぶ、1602?71)は、家康の10男でもあり、御三家の一つでもあったため、和歌山入国から間もない元和7年(1621)、和歌浦に紀州東照宮を造営したのです。
このような各地での東照宮の造営を背景に制作されたのが、家康の一代記と東照宮の由来を絵巻にして描いた東照宮縁起絵巻で、全国にいくつかの作例が残されています。それらの中で、現存する最も古い作例は、徳川家光(とくがわいえみつ、1604?51)が、寛永17年(1640)に日光東照宮へ奉納した狩野探幽(かのうたんゆう、1602?74)筆の東照宮縁起絵巻(日光本、にっこうぼん)であり、国の重要文化財に指定されています。
ところで、写真に挙げた作品は、紀伊藩初代藩主の頼宣が、この日光本を参考にして描かせ、紀州東照宮へ奉納した東照宮縁起絵巻(紀州本、きしゅうぼん)であり、和歌山県指定文化財に指定されているものです。詞書(ことばがき)と呼ばれる文字の部分は、尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、1591?1653)が記し、絵の部分は住吉広道(如慶、すみよしひろみち(じょけい)、1599?1670)が描いています。
尊純法親王の日記「青蓮院宮日記抄(しょうれんいんのみやにっきしょう)」の記事から、正保3年(1646)にはこの紀州本の詞書が完成したことがわかり、おそらくは絵の制作はこれを少しさかのぼると想像されています。
絵の筆者である広道は、堺出身で、土佐派(とさは)で大和絵(やまとえ)を学び、のちに幕府の御用絵師(ごようえし)をつとめる住吉派(すみよしは)を開いたことでも知られる人物です。絵の図様は、基本的に日光本を踏襲しているものの、いくつかの場面では日光本にない描写もみられます。そうした紀州本独自の場面として特に重要なのは、最終巻の第5巻に描かれている紀州東照宮の造営と和歌祭(わかまつり)の場面であり、家康の命日におこなわれていた紀州東照宮の春の祭礼である和歌祭の渡御行列(とぎょぎょうれつ)を詳細に描いています。
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東照宮縁起絵巻 第5巻 和歌祭の場面 紀州東照宮蔵
正保3年(1646)に紀州本が完成したことを考えると、前年の正保2年(1645)年の家康30回忌におこなわれた和歌祭の様子を描いた可能性も想定され、和歌祭の歴史を知るうえでも、きわめて貴重な資料といえるでしょう。下の写真は、この絵巻に描かれた和歌祭の渡御行列が、どのような練り物(ねりもの)や出し物(だしもの)に相当するかを書き込んだものです。
(画像をクリックすると拡大します。画像は左右で2つに分かれています)
この紀州本東照宮縁起絵巻は、現在、当館で開催中の企画展「江戸時代のくらしと活躍した人々」(会期:7月24日?9月9日)で展示しています。展示は、上の写真で挙げた第2巻の関ヶ原の戦いの場面と、第5巻の和歌祭の場面です。和歌祭の部分の展示では、どの練り物に相当するかを書き込んだ上の写真を、パネルにして、あわせて展示しています。江戸時代の人々が抱いていた家康への追憶(ついおく)を、緻密(ちみつ)な絵巻の描写から感じ取っていただければ幸いです。(学芸員 安永拓世)
→夏休み子ども向け企画展 「江戸時代のくらしと活躍した人々」
→和歌山県立博物館ウェブサイト