和歌山城のまわりに、なぜ堀(ほり)があるの?
和歌山城の周りには、「内堀」と呼ばれた堀があり、
さらに、その外側には「外堀」と呼ばれた堀があります。
もともと堀は、敵の侵入を防ぐために造られた施設でした。
しかし、江戸時代も時間がたち、「平和な時代」になってくると、
当初の目的で使われることが少なくなってきました。
やがて、堀は船による物資の輸送とのかかわりで重要になってきます。
今は自動車(特にトラック)が輸送の中心ですが、
江戸時代は船による輸送が中心でした。
当時の堀は、和歌川や紀ノ川ともつながっていましたから、
船による輸送に便利であったわけです。
(紀伊国名所図会 納屋河岸<京橋>付近 画像をクリックすると拡大します)
現在残っている地名に「堀」がつく場所があれば、昔そこに「堀」があったかもしれません。
例えば、寺町の南に「掘止」という地名の場所があります。
寺町の南に武家屋敷地が拡大していくなかで、南側の守りを固めるために、
東の和歌川と西の水軒川を結ぶ外堀を掘る計画が寛文年間(1661~73)にたてられました。
現在の神明神社のあたりまで掘られましたが、
幕府から大規模な工事だといわれて、中止させられ、
和歌道(現在の国道42号)から西側は埋め戻されたといわれています。
これが現在もある「堀止」の地名の由来です。
1918年(大正7年)から始まった埋め立て工事で、この堀はなくなりました。
今回で「お城と城下町の話」は終わりです。
新学期が始まりました。みなさん、県立博物館にはもう来てくれましたか。
現在開催中の夏休み子ども向け企画展「和歌山城と城下町に住む人々」は、
9月4日(日)まで行っています。
もし、まだの人で、興味のある人はぜひ県立博物館にお越しください。
(主任学芸員 前田正明)