今回は、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771-1852)が使用したハンコの中から、
肩書きを示すハンコについてご紹介しましょう。
紀伊藩10代藩主の徳川治宝は、さまざまな文化に高い関心を示した藩主で、偕楽園焼(かいらくえんやき)などの御庭焼(おにわやき)を焼かせたことで有名ですが、みずから書や絵も制作しました。そうした治宝の作品には、多種多様なハンコが使われ、なかには、治宝の官位(官職や位階)の名前、いわば肩書きをハンコにしたものがいくつか知られています。治宝の書や絵には、署名や年紀が記されることがほとんど無いので、作品の制作時期を特定できるものは非常に少ないのですが、治宝の官位は時代によって変化したため、こうしたハンコから、作品の制作時期を絞り込めるものがあるのです。治宝は最終的に従一位(じゅいちい)大納言(だいなごん)にまで至りましたが、御三家の当主で生前に従一位にまでなったのは、江戸時代を通して治宝だけでした。
次に紹介する書は、そうした治宝の肩書きを示すハンコを押した例です。
五言律詩書「登慶徳山有感」 徳川治宝筆
(ごごんりっししょ「けいとくさんにのぼりかんあり」 とくがわはるとみひつ)
1幅
絹本墨書
縦35.3㎝ 横62.3㎝
江戸時代(18-19世紀)
長保寺蔵
慶徳山は、紀伊徳川家の菩提寺(ぼだいじ)である長保寺(ちょうほうじ)のことで、この書は、徳川治宝が、長保寺で詠(よ)んだ五言律詩(ごごんりっし)の漢詩を書いたものです。
【翻字】
海壑佳城地堧壇
石径通蓬宮何処
問蓮界竟帰空往
事茫如夢流年感
不窮躋攀松柏下
身在法雲中
登慶徳山有感
押されているハンコは、
右上が
「光風霽月(こうふうせいげつ)」(陽文長方印(ようぶんちょうほういん))
左上が
「黄門(こうもん)」(陰文方印(いんぶんほういん))
左下が
「治宝之章(はるとみのしょう)」(陽文方印)
です。
このうち、「黄門」が官職を示すハンコで、「黄門」とは、中国風の呼び方で中納言(ちゅうなごん)の官職を示します。
したがって、この書は、治宝が中納言の官職にあった寛政3年(1791)から文化13年(1816)までの間に書かれたとわかるのです。
このほかにも、治宝は、官位の名前をハンコの文章に用いています。
そうした例をいくつかご紹介しましょう。
◆「賜紫金魚袋(ししきんぎょたい)」(陰文方印(いんぶんほういん))
…紫の衣に金色の魚袋(ぎょたい、腰から下げるかざり)をつけられるのは三位(さんみ)以上なので、三位以上であることを示す。
◆「亜相(あそう)」(陰文方印)
…「亜相」は、大納言(だいなごん)の中国風の呼び方。
◆「特進治宝之章(とくしんはるとみのしょう)」(陰文方印)
…「特進」は、正二位(しょうにい)の中国風の呼び方。
◆「清和裔一位源朝臣(せいわえいいちいみなもとあそん)」(陰陽陰文方印(いんよういんぶんほういん))
…清和源氏の末裔で一位であることを示す。
◆「賜深紫(ししんし)」(陰文長方印(いんぶんちょうほういん))
…一位のみ、深紫色(ふかむらさきいろ)の服を着ることができたことから、一位であることを示す。
このように、位階や官職が変わるごとに、治宝はハンコを作り替えていたようです。
治宝の書や絵は、大名への贈答用や、家臣への褒美として用いられたものが多いようですから、こうした治宝の格や位の高さを象徴するハンコも、治宝作品にとっての重要な要素だったのかもしれません。(学芸員 安永拓世)
→企画展 ハンコって何?
→和歌山県立博物館ウェブサイト