企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
17回目にご紹介するのは、浜口灌圃(はまぐちかんぽ)です。
浜口灌圃(はまぐち・かんぽ)
◆生 年:安永7年(1778)
◆没 年:天保8年(1837)10月
◆享 年:60歳
◆家 系:紀伊国有田郡広村(ありだぐんひろむら)の名家で西浜口家(にしはまぐちけ)の4代当主である浜口教表(はまぐちきょうひょう、生没年未詳)の長男
◆出身地:紀伊
◆活躍地:紀伊・下総
◆師 匠:野呂介石(のろかいせき、1747~1828)
◆門 人:未詳
◆流 派:文人画
◆画 題:山水
◆別 名:儀三郎・儀兵衛・恭・山平など
◆経 歴:町人、文人画家。西浜口家は、初代浜口儀兵衛(はまぐちぎへえ、1669~1722)が有田郡広村から下総国銚子(しもうさのくにちょうし、現在の千葉県銚子市)に渡り、銚子で醤油醸造(しょうゆじょうぞう)を始めた名家で、当主は代々広村と銚子を往復して生活したという。灌圃は、その西浜口家の5代当主。文化3年(1806)、家業である銚子での醤油醸造業を継ぐ。文化11年(1814)、地士となるが、文政元年(1818)、地士をやめ、文政12年(1829)、再び地士となる。天保2年(1831)、隠居し、以後は山平と称す。若い頃から絵を好み、有田郡湯浅(ありだぐんゆあさ)の福蔵寺(ふくぞうじ)の住職である平林無方(ひらばやしむほう、1782~1837)とともに、紀伊藩士で文人画家の野呂介石に師事して絵を学ぶ。山水を得意としたようだが、介石の門人の中では、介石とやや異なる表現を用いた。また、絵に限らず風雅を愛し、庭に梧桐(あおぎり)を植えて、その亭を碧梧亭(へきごてい)と名付け、また、その居宅を風信亭(ふうしんてい)と呼び、師の介石をはじめ、多くの文人を招いたという。なお、刈り取った稲に火をつけて広村の民衆を津波から救った「稲むらの火」で有名な浜口梧陵(はまぐちごりょう、1820~85)は、この灌圃の孫にあたる。
◆代表作:「山水図」(個人蔵)天保7年(1836)、「山水図」(和歌山県立博物館蔵)など
今回展示しているのは、灌圃の代表作の一つである「山水図」(和歌山県立博物館蔵)です。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
款記は「灌圃」で、印章も「灌圃」(朱文方印)です。
灌圃は、平林無方とともに、介石の山水表現をよく学んだとされていますが、現存する作例はそれほど多くなく、この絵も貴重な作例の一つといえます。介石の晩年の画風をかなり忠実に再現した無方に比べると、灌圃の画風は、全体にややゆがみや粘りがあるのが特徴です。とりわけ、山肌や岩肌には、介石があまり用いなかったような細く繊細な線を何度も重ね、隆起する山の立体感を独特に表現していく傾向にあります。これが、灌圃の未熟さから来る表現なのか、あるいは独自の画風なのかはよくわかりませんが、いずれにせよ、介石の門人たちは、同じように介石に学びつつも、それぞれに特徴のある表現を模索し、体得していったのではないでしょうか。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト