寛政元年(1789)、徳川治宝は19歳で紀伊藩10代藩主となりました。
治宝は藩財政の立て直しのため藩政改革を行い、年貢増徴や諸産物の専売制を行いました。
また、中・下級家臣を抜擢し、家老らの門閥派を中心とした藩政の流れを変えようとしました。
その一方で、文雅を楽しむ政策も行い、これが財政難を引き起こす要因となったともいわれています。
文政7年(1824)、治宝は藩主の座を婿養子である斉順に譲りました。
しかし、隠居後も、治宝は文政10年(1827)に完成した西浜御殿に逗留し、
側用人となった重臣たちも西浜御殿に参集し、
嘉永5年(1852)12月7日に83歳でこの世を去るまで、隠然たる勢力をふるいました。
大村弥兵衛高行や児玉覚輔も治宝に重用された家臣で、
加増された際、屋敷替えで屋敷地も広くなったようです。
大村家系譜 和歌山県立文書館蔵 〔展示番号49〕
児玉家屋敷図 個人蔵 〔展示番号56〕
治宝の死後、治宝一派が粛清されますが、高行や覚輔は重い処分は受けなかったようです。
つづく
9日(日)、午後1時30分からミュージアムトークを行い、19人の方の参加がありました。
次回のミュージアムトークは7月15日(土)です。
ミュージアムトーク終了後、現地見学会(旧大村家住宅長屋門)を行います。
(主任学芸員 前田正明)
→企画展「紀伊徳川家の家臣たちⅡ」