御遺告真然大徳等(館蔵品939)
(巻首)
(巻末) ※写真はいずれもクリックで拡大します。
【解説等】
・『高野山開創と丹生都比売神社』(和歌山県立博物館、2015年)
【翻刻等】
・弘法大師著作研究会編『定本 弘法大師全集』第七巻(高野山大学密教文化研究所、1992年)
【内容】
弘法大師空海が入定に先がけて、真然大徳等の弟子たちに遺言したとされる「御遺告真然大徳等」の写しです。
「御遺告真然大徳等」は、弘法大師空海が承和2年(835)3月21日
の入定に先がけて記したとされる「御遺告」の一つです。
巻末には、承和2年3月15日の日付けと空海の署名があり、
空海の後継として高野山の造営をおこなった真然等に残した遺言という体裁で記されています。
「御遺告」には、「遺告二十五箇条」「遺告諸弟子等」「太政官符案幷遺告」「遺告真然大徳等」の主に四種類があり、
「遺告二十五箇条」が10世紀中頃にまず成立し、
内容を改変してそれを抄出して「遺告諸弟子等」が11世紀初め頃にでき、
さらにそれを抄出して残りの「太政官符案幷遺告」「遺告真然大徳等」が作られた
と考えられています(武内孝善「御遺告の成立過程について」『印度学仏教学研究』86、1994年)。
この資料には本奥書に
「御遺告一巻/天正十七〈己丑〉四月廿一日修復之畢/木食興山上人応其判」
とある点が注目されます。
応其は天正13年(1585)の羽柴秀吉による焼き討ちから高野山を救った人物として知られています。
天正17年の段階ではいまだ高野山の寺領が確定されていなかったため、
高野山(および応其)は自らが主張する寺領の領域の正当性を示すために、
「御遺告諸弟子等」「太政官符案幷遺告」「御遺告真然大徳等」「弘法大師御手印縁起」の修復をおこないました。
この資料は、応其が修復を行った「御遺告真然大徳等」の写しと考えられます。
巻頭には「一ノ真乗院」という朱印がある点も注目されます。
これは高野山一心院谷にあった真乗院のことを指すとみられます。
真乗院は行人方の有力寺院で、有志八幡講の構成寺院でもありましたが、
明治初年に合併されて今は残っていません。
(当館学芸員 坂本亮太)