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遺告二十五箇条(館蔵品1028)

遺告二十五箇条(館蔵品1028)
1028遺告二十五箇条(巻首) (巻首)
1028遺告二十五箇条(巻末) (巻末)
【翻刻等】
・弘法大師著作研究会編『定本 弘法大師全集』第七巻(高野山大学密教文化研究所、1992年)
【奥書】
于時元禄三〈庚午〉歳
        六月上浣日
      高野山湯屋谷学侶勢歓(観)院以本写之
       伝授谷上宝寿院空存房
                 沙門智元謹拝之
                        了寂(花押)
【内容】
空海が諸弟子等に残した遺言とされる「遺告二十五箇条」の写しです。
「遺告二十五箇条」は、一般に「御遺告」とも呼ばれるものの一つで、
巻末に承和2年(835)3月15日の日付けと空海の署名があり、
空海が諸弟子等に残した遺言という体裁で記されていますが、
後世空海に仮託して成立したものと、現在では考えられています。
「御遺告」には、「遺告二十五箇条」「遺告諸弟子等」「太政官符案幷遺告」「遺告真然大徳等」の主に四種類があり、
「遺告二十五箇条」が10世紀中頃にまず成立し、
内容を改変してそれを抄出して「遺告諸弟子等」が11世紀初め頃にでき、
さらにそれを抄出して残りの「太政官符案幷遺告」「遺告真然大徳等」が作られたと考えられています
(武内孝善「御遺告の成立過程について」『印度学仏教学研究』86、1994年)。
奥書から、元禄3年(1690)6月に了寂が小田原谷のなかの湯屋谷にあった勢観院の本より書写し、
宝寿院空存房智元より伝授を受けたものとわかります。
勢観院は現存しませんが、小田原谷の下通九箇院のうちの一つで、
十一面観音像を本尊とする寺院で、元禄3年当時は、
阿波国名西郡大粟上山(現在の徳島県神山町)出身の寛龍という僧侶が住職であったようです(「金剛峯寺諸院家析負輯」)。
(当館学芸員 坂本亮太)

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