本年度新たに羽柴秀吉の朱印状を収集しました。天正13年(1585)秀吉の紀州攻めに関するものです。

縦29.7㎝、横44.3㎝、中央を横半分に折った、折紙形式の朱印状です。年代は記されていませんが、内容から天正13年(1585)、秀吉による紀州攻めのものと考えられます。
【釈文】
至南方用所へ
子細候て尾藤甚右衛門
差遣候条、其城
留守儀堅申付、
可相越候、尚委細
甚右衛門可申也、
三月五日秀吉(朱印)
宮崎次郎七郎殿
【内容】
羽柴秀吉が宮崎次郎七郎に宛てて、南方、すなわち紀州へ用事があり、尾藤甚右衛門知宣を差し遣わすので、そなたの城の留守について堅く申しつけたうえでやって来るように、なお詳細は尾藤甚右衛門が申し伝える、というものです。
本文書は『豊臣秀吉文書集』に水間寺(大阪府貝塚市)が所蔵する写しが掲載されており(『豊臣秀吉文書集』5997)、内容的には既知のものではありますが、その原本が確認されたことになります。秀吉は3月21日に大坂城を出馬し、紀州攻めを敢行しますが、既に3月5日には準備が進められていたことがうかがえます。
宛所にある宮崎次郎七郎は、紀伊国宮崎荘(現在の有田市)を本拠とした国人で、熊野別当の系譜を引き、平安時代に有田郡に定着したと伝える一族です。紀伊守護畠山氏に仕え、室町幕府崩壊後には、織田信長の家臣団にも組み込まれたようで、『信長公記』でも「宮崎二郎七」の存在が確認できます。
秀吉が使者として遣わした尾藤甚右衛門は、秀吉の早くからの家人で、秀吉の弟である秀長にも仕えた尾藤知宣(知定、?~1590)でしょう。なお「湯川記」によると、「尾藤久右衛門」は紀州攻めに際し、杉若無心や仙石秀久とともに、湯河氏を攻めたとされます。また紀州攻め後、尾藤知宣の兄弟である尾藤下野守(宇多頼忠)は広城(現在の広川町)に在城したと伝えます。尾藤氏も紀州攻めに大きくかかわった一族でした。
本資料につきましては、あらためて常設展等にて紹介する予定です。
なお、もう一点当館で所蔵している、紀州攻めに関する羽柴秀吉朱印状(館976)は、徳川美術館・大阪歴史博物館・江戸東京博物館(巡回)で開催されるNHK大河ドラマ特別展「豊臣兄弟!」で展示されます。そちらも是非ご確認いただけましたらと思います。
